私は浮かれすぎていた。



 治安の悪い国らしいというのは知っていたけれど、それは、日本でいう真夜中の歌舞伎町くらいの、気を付けて早足に歩けば大丈夫、くらいのものだと思っていた。


 どうやらそうではないらしい。



 私はメールを通して、気をつけるべきことを教えてもらえないかと頼んだ。インターネット上の情報は多すぎて、どれが正しいものか選び取ることができなかったのだ。




 宝石商は、とても丁寧に、気を付けるべきことを教えてくれた。




 宝石は身につけてこないこと。

 スーツケースは、刃物で切って開けられないよう、布地の部分がないものを選ぶこと。

 空港内でうろつかないこと。空港内の自販機は使用しないこと。

 エメラルドの購入はクレジットカードを通じて行うことができるため、換金は最小限でいいこと。

 紙幣は、財布の中以外の箇所にも入れておくこと。

 荷物を肌身離さず持つこと。

 空港の外には出ないこと。


 空港で会えたら、そこからはしっかりとアテンドするから、三泊四日の滞在中は大丈夫だということ。

 ホテルも最上級のところをとったから、安心していいこと。
 
 滞在中はずっと行動を共にするが、それ以外の時間にホテルから無断で出てはいけないこと。




 アジア人の女性が一人でうろついたら、一時間もたたないうちにみぐるみをはがされ、下手をしたら殺されてしまうこと。

 それぐらい、お金のない、貧しい人が多いということ。



ひえ……

 返信メールに書かれた山のような注意書きにも驚いたが、その最後が衝撃的過ぎて、私はくらくらした。


 それでも行くのだ、という決意は揺らがなかったが、心配なことには変わらなかった。




 コロンビアの空気は乾いていた。

 海の近くに行けば標高は低く、赤道直下で常夏だが、首都の近くは二千メートルの高度であり、いつも春か秋の気候だという。

 高山病にも注意しなければならない。エメラルドまでの道のりは、過酷だ。



 スーツケースを手に取り、手続きを済ませ、通路を進んでいくと、開けた場所に出た。

 目の前にたくさんの人がいて、ここで合流するんだな、とあたりを見渡すと、サングラスをかけた男性がぱっと手を挙げた。

 サングラスをとると、優しい瞳がこちらを見ていた。アジアの顔つきは、その人しかいなかった。

 周りを見ても、私たちしか日本人は、いや、アジア系の人はいないように見えた。異国に来たなあ、と唾をのむ。


 男性に近づくと、彼は私の顔を見て微笑んだ。

初めまして。メールではどうも。いやあ、会えてよかった


 会えたことがうれしい、という意味ではなく、会えなかったら大変だった、という意味なのだろう。

私もです。よろしくお願いします


 頭を下げると、こちらこそ、と彼は笑った。とても感じのいい人だった。










いいエメラルドを用意していますからね

 出会ってすぐ、私たちは車に乗り、私が宿泊するホテルへと向かった。
 

 運転席の宝石商は笑って、バックミラー越しに私を見た。思わず顔がほころんでしまう。

今日は、ホテルに行って休みましょう。もう夕方ですからね。夕飯はホテルでとりましょう。時差ぼけはどうですか

思ったより大丈夫です。明日と明後日、眠かったら困りますからね

ははは。多分、時差ぼけがきついとしたら夕方ですから、明日は午前中にたくさん宝石を見て、もちろんそのままゆっくり選んでいただいてもいいですし、時間が余ったら治安の比較的いいところをまわってもいいですし

何から何までお世話になります

 頭を下げると、いえいえ、と彼は笑った。私も笑って、窓の外を見る。


 窓ガラスは黒くくもっていて、外からでは中が見えないようになっていた。

窓を開けてもいいですか

すみません、治安上、開けないでいただきたいんです

 
 驚いた。どういうことだろうか。

少しでも開けると、銃口が入りますからね

じ、銃口ですか……

ええ、金を寄こせって言われますよ


 はは、と彼は慣れたことのように私を脅す。

治安の……悪い国、なんですよね

はい。

もちろん、素晴らしい国なんですよ。

世界に誇れるコーヒーとエメラルドがあり、いい人ばかりで、気候もよく過ごしやすい。

住めば都なんですけれど、でも、日本からいらっしゃる方には、少し脅すぐらいじゃないと、なかなか想像できないんですよね



 日本は、平和な国ですからね、と彼は言った。
 私は、黒くくもった窓ガラス越しに、外を見つめた。青空が灰色になって、私を見下ろしていた。











 しばらく車を走らせると、町の様子が変わってきた。空港のそばは、だだっぴろい場所に道路が通っているような景色が続いていたが、だんだんとビルが見えてきて、車も人も増えてきた。


 見知らぬ町、見知らぬ言語、見知らぬ人々。
 窓が開けられないのが惜しいな、と思いながら、じっと外を見つめていた。


 気がついたのは、道路わきに、じっと何かを待つようにして立っている人がいる、ということだ。

 何をしている人なのだろうか。随分小さな子もいる。じっと、車を見ているだけの人。ぼろぼろの服を着ていたから、貧しい人たちなのだろう。


 その人たちがなぜこちらをじっと見ていたかは、車が止まって初めて分かった。







 赤信号になったとたん、彼らは一斉に、車の間を縫ってやってくる。

 手に箱を持った青年は、しきりに何かを叫んでいる。よく見ると、箱の中にお菓子が入っていた。

 おもちゃを両手に歩く女性もいた。フロントガラスから中を覗き込み、子どもがいる車にはしつこくおもちゃを見せていた。



 青信号になる数秒前に、彼らは早足でわきによけていく。そして青信号に代わると、当たり前のように、何事もなかったかのように、車は進んでいく。




日本じゃ見られないでしょう


 明るい声で、宝石商は言った。

ええ……驚いています

 日本の道路とはあまりにも違う光景に、私は言葉がうまく出てこなかった。


 この国にあるのは、エメラルドとコーヒーだけではない。




 さらに進んだ先でも、相変わらず赤信号で止まるたびに車の間を行き来していたが、だんだんと物を売る人が減っていった。

 代わりに、何も言わず、表情も変えず、近寄ってきてはこちらを見るだけの人が増えてきた。少年少女の姿が多いように思う。宝石商は、慣れているのか、気にも留めない様子だ。

あの……


 私が全てを言う前に、ああ、と宝石商は少し振り返った。

あの人たちは無言ですけどね。お金をくださいって立ってるんですよ

 彼がそう言った、そのときだった。



 窓ガラス越しに見えたのは、右腕のない少女だった。大きな黒目が、じっと、車の中を見つめてくる。


 私は思わずカバンに手を突っ込み、財布を取り出した。

 いくらあげれば十分なのだろう。紙幣を何枚か取り出す。

あの

窓を開けることができません


 静かな声で、宝石商が言う。

で、でも

 信号が青になった。ゆっくり、車は進んでいく。後方に、片腕の少女が消えていく。


 しばらくの沈黙の後、宝石商はゆっくりと話し出した。

多分窓を開けても大丈夫だったとは思いますし、人によっては都度、お金をあげる人もいます。

飴をあげるという人にも出会ったことがありますね。

でも、私はしないんです。キリがありませんから



 最初は、冷たい、と思ったけれど、すぐに思い直した。

 キリがない、という理由もわかる気がしたのだ。

 手に握りしめている札束を、お金を、思わず握りしめてしまう。


 私がこれをあの少女にあげたとして、少女はそのお金を、どうするのだろう。
 親に差し出すのだろうか。もしかしたら、誰かに盗られてしまうかもしれない。


 同じ年の少女を、もう何人も見た。少年も、赤ん坊を抱えた大人も、老人も。キリがない。だから誰にもあげない、という決断を下すまでには、相当な時間がかかっただろうな、と思う。

さっきの女の子の腕はどうだかわかりませんが、中には自ら腕を切り落とす人もいるんですよ

えっ、どうして

その方が恵んでもらえる確率が上がるからです













 いつの間にか、握っていたお金はぐしゃぐしゃになっていた。



 遠い国の常識は、あまりにも違う。



 いざエメラルドへ! と舞い上がっていた私の心が、しぼんでしまった。

私……



 このお金を、この国で、別のところに使うべきなのではないか。募金箱を見つけて、その中にありったけを詰め込んで、帰国するべきではないのか。









とびっきりのエメラルドを買うべきですよ

 私の心を読んだように、宝石商はそう言った。


 私が顔を上げると、バックミラー越しに目が合った。その目は、とてもやさしく、私を見つめていた。

お客さんだけじゃないんです。たくさんのお客さんが、今まであなたと同じようなことを考えてきた。

私は、このお金を宝石に使うべきなのか。


そのたびに私は、そうですよ、この国に来たからこそ手に入れられる最高品質のエメラルドを買うべきなのです、とお答えしてきました。

もちろん、私の商売のためでもありますが

 はは、と宝石商は笑った。




 静かに、車が停止する。車の間を、人が、人が、人が、歩いていく。

素晴らしいエメラルドを買って、その石から元気をたくさんもらって、そして、日本で素晴らしい日々を過ごしてください。

いきいきと生きてください。

そんな中でも、遠い日本の地で、コロンビア産の極上のエメラルドを見るたびに、お客さんはこの景色を思い出します。

じゃあ、自分ができることは何か。それを見つけることが、一番です

自分ができること……

そうです。私は宝石が好きで、流れ流れてこの国に来ましたが、やはりずっと、宝石を売りながら頭の隅で考えています。

お客さんからいただいたお金で、私はコロンビアの経済を少しだけ潤すことができる、それに、寄付だってすることができる、あとは何ができるだろう、ってね










 青信号になる。車が、進んでいく。人々が、もう二度と会うことのない人々が、後方に流れていく。


 何も言えなかった。

 気がついたら泣いていた。なぜか、涙が止まらなかった。




 私の無知にあきれたからだろうか。世界の広さなどというよくある言葉の本質を、やっと少しだけ、理解したからだろうか。お金を持っているだけの人間の無力さが、身に染みたからだろうか。

エメラルドは、愛の石とも呼ばれます。それから、希望を意味する宝石でもあるんです。

コロンビアは、貧富の差が激しい国です。
たくさんの問題を抱えています。

でも、少しでも、こうやってコロンビアのことを知ってくれた人が、やがて手を差し伸べてくれるって、信じています

……その、通りです

 言葉を絞り出すと、宝石商は少し困ったように、泣かないで、と言った。





 私は涙を何度も袖で拭って、前を見る。
 また、車が止まる。いくつもの目が、こちらを見ては、消えていく。

私、コロンビアに来るために、エメラルドを買うために、自分でもびっくりするぐらい、お金をためることができたんです。


日本に帰ったら、次は、コロンビアのためにお金を貯めようと思います

それはいい。素晴らしい。嬉しいです

 コンコン、と少年が窓ガラスを叩いた。反応が無いと分かると、すぐにいなくなってしまう。


 私は、握っていたお金をピンと伸ばして、財布に戻した。



















 信号が、エメラルドの色に、変わる。











                      了

エメラルドを買いに 後編

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