一度…家に、帰られますか?
それを聞いた緋奈子は、一瞬驚いたように目を開き、それから逡巡するように視線を落とした。
そう…だよね。みんな、心配してる………かも、だし……。一回戻ったほうが、いいかな……
……そうですとも
その答えを聞いて、即答する。
した、つもりだ。
実際、そう返ってくることは十分に予想していた。
微笑んで返す。
かも、ではありません。あなたの妹君は特に……呪いが解ける前からもう姉上を心配しておられましたからね
そっかぁ……
と、心配していたという言葉に照れ笑いをこぼす。
綾緋、あれで結構泣き虫なところあるから……って、あれ? 綾緋に会ったん?
おや、言っておりませんでしたか。……はい、少し言葉を交わした程度でしたが
と、その邂逅を思い出す。
……家族思いの、御立派な妹君でした
妹を褒められ、緋奈子はパッと表情を明るくした。
そしてまるで自分が褒められた時のように、否、それよりも嬉しそうに笑う。
でしょ?……自慢の妹なんだよね。こんなおねーちゃんでも慕ってくれるし。……いろいろ重いの押し付けちゃって……大変だろうにさ
後半は、少し申し訳なさそうに。
ふふ、誠に良き姉妹です
そんな彼女の様子に、柔らかく微笑む。
しかし、その言い様では帰宅したところで妹君を悲しませてしまいますよ。こんなおねーちゃん、ではなく、綾緋さんにとって大事な姉君なのですから
と後半は少し説教のような口調になる。
押し付けた、引き受けた……さてどちらが先に言い出したものだろう。案外その選択は苦などではなく、家族として労わりあうことの、それ以上でも以下でもない……それこそ、“居てくれるだけでいい”のが、家族…なのではないでしょうか
家族など居らぬ私が、何を知ったように語っているのでしょうかね。
とつい苦笑したり。
……そうかな。……そうかも
緋奈子は、その言葉に穏やかに口元を綻ばせて頷いた。
そして顔を上げて、ふと祈雨の顔を見る。
じっと見つめて
……きーやん?
ぽつりと、どこか心配そうな声色で名を呼んだ。
え?
すっかり上機嫌だとばかり思っていた彼女からそんな心配そうな声が飛んでくるとは思っておらず、つい頓狂な返事を返してしまった。
今の自分は、一体どんな顔をしていたのだろう。
すこし恐ろしくなって、笑顔を作る。
いいえ、ふふ。誰から見ても、仲睦まじい姉妹。羨ましいと思わない者はおりますまい。……そう、言いたかったのですよ
はぐらかす。
うん……、ありがと……
と返しつつも、その表情は釈然としない。
迷うように視線をさまよわせ、口を数度開閉し、それから思い切った様子で声を出した。
あのさ、
きーやん、だいじょぶ?
真っ直ぐに、炎心のような瞳が祈雨を見上げる。
えーと、うまく言えないんだけど……なんていうか、無理してるっていうか……? なんだろ……そんな感じして……
言葉を選びながら、しかし思うような言い回しが思いつかないのか、「うー」とか、「あー」とか、意味のない音を挟みながらそう問うた。
気のせいなら、いいんだけど!
差し出がましかっただろうかと思ったのか、そう慌てて付け足す。
無理など……
と咄嗟に言い返すも、それ以上は続かなかった。
幸か不幸か、彼女の言葉に重なって消えたことで、続ける必要もなくなった。
慌てる眼前の少女は人間だ。
慈しむ対象だ。
だが、そんな困っている人間に対して、掛けるべき言葉が浮かばない。
言い知れぬ感情は募り、募る。
……ええ、あだなることです
と微笑んで返答した。
さて、では朱華の家までお送りいたしますね
そっ……か……
その微笑みに、しかしやはり彼女の顔は晴れない。
だが、自分で言った手前それ以上追及することも憚られたのか、そう頷いた。
って、ひ、一人で帰れるからだいじょぶだし!
送るという言葉には、そう少し照れた様子で遠慮した。
おや、然様ですか
と、遠慮する緋奈子ちゃんに対して、
しかし、また何者かの手が掛からぬとも言い切れませんし……
思案する事数秒。
……ああ、そうだ。魔法名……私の真名を刻めばいいのか
と思いついたように、ひょいとその魔法で、緋奈子ちゃんのポケットに収まっていた妖精のレンズ……
眼鏡を奪い取り目立たない場所に、小さく自らの魔法名を刻む。
……妖精のレンズは、消耗品だ。
いずれは彼女の手元から消え去る物だが、
今この騒動の渦中にいる間は、これでいつでもその危機に駆けつける事が出来るだろう……と。
シノビの手に余ることが起きれば、雨龍の加護に頼ってください。必ず、お助けします
とまた魔法でポケットの中に眼鏡を返した。
妖精のレンズが消耗品だって最近ルルブ読み返して気づいたPLだった
ふふ 判定にマイナスの修正を付ける効果を使用したとき、パリンと割れるようなイメージかなーと思っています!
ので、単純に持ってたりかけてみたりする分にはそんな簡単には砕けないっていうことでひとつ……
ふふ、でも消耗品=いつかは消えてなくなるという設定を逆手に取り、しれっと名前入りのプレゼントをしてしまう蛇であった……
おお~……!
目の前で行使された魔法に、目が輝く。
そしてしまわれたレンズを今度は早速自分で取り出して、今刻まれた魔法名をじっと見た。
きーやんの真名……。ええと、き、きう………?なんて読むん?
単純な好奇心から読み上げようとして、しかし読み方がわからない様子で首をかしげた。
祈雨昏水都早社宮司
名乗り慣れた真名を繰り返す。
私の魔法使いとしての名前であり、蔵満神社が祀る龍神の真名。……祈雨は仮初の名で、真名の初めの二字を取って付けたのです
へぇ~~~!
と感嘆の声を漏らす。
なんかかっこいいねー、そーいうの
ええと、きう、く、ら、み、つ、はしゃ、ぐうじ
一音一音確かめるようにして声に出してみる。
そのたどたどしい言い方に破顔する。
はい
名を呼ばれたので、返事をした。
それだけだった。
……わざわざこの名前を呼ぶ必要はありませんが、我が名が刻まれた物がある場所であれば、私はいつでも駆けつける事が出来る。手放さずに持っているよう……お願いいたしますね
うん、わかった
こくこくと頷き、ワープだ……、と小さな声で
少しうきうきした様子で呟きながらレンズをしまう。
にしても、神様っぽい名前だよねー。うち、いっつもきーやんって呼んでるし読み方忘れちゃいそうだわ……。もし忘れてたらゴメン、また教えて!
彼女にとっては、それは何気ないお願いに過ぎなかった。
……ふふ、神様ですから
そーだったわ
このやり取りは何度目だろう。
そんなことを片隅で思いながら、彼女のお願いが耳に届いた。
……。……ええ、またお教えしましょう。何度でも
穏やかにそう返した。
嘘を吐いたわけではない。
読み方が分からなくなれば、何度でも教えよう。
……しかし彼女が、その声で“きーやん”と、愛称さえ呼ばなくなったとしたら。
その限りではないだろう、と。
……日が暮れてしまいます
話題を変えるようにそう口にした。
あれから時間が経ちました、朱華の人間たちはあなたの所在を心配していることでしょう
緋奈子は促されるようにして空を見上げ、その茜色に気が付き
やば
と声を漏らす。
んじゃ、ちょっと行ってくるね
慌てた様子で祈雨に背中を向け、走り出す。
3歩、4歩、――5歩走ったところで、ピタリと足を止め、そしてくるりと振り返った。
手を口に添え、祈雨に届くよう大きな声で言う。
すぐ戻るから!
!
さようなら、と口にしかけたところだった。
知り合いの、生真面目な戸口の青年の姿が脳裏に浮かび、記憶の【忘却】を依頼するなら彼に頼もうか……そんなことが心を占めていたというのに。
ポツ、と雨が降った。
やがてザアザアと音を上げて降る雨に、少女はますます焦って、フードを被ってあっと言う間に走り去っていくだろう。
……この心の、遣らずの雨とは名ばかりの、追い立てるような雨だった。
もう一度振り返った少女に、小さく手を振る。
……行ってらっしゃい、緋奈子さん
愚かしい我が身を呪いながら、最後の無理をした。
その背は追わない。
引き止めもしない。
……ただ、もし、
もう一度彼女がこの心に触れることがあれば……
そのときは。
神でなく、人でなく、それでも“祈雨丸”という人格の一つであるこの想いについて、打ち明けてみたい……と。
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NEO HIMEISM 様
https://neo-himeism.net/