08 図書棺を歩こう
08 図書棺を歩こう
どうして、私たちに頼むの? 貴女たちは探さないの?
探しているのよ。それに……これは、二人にとっても他人事じゃないのよ
どういうこと?
彼の本を見つけないと、二人が入って来た扉も開かないのよ
その扉が開かないとどうなるの?
扉が開かないと、この図書棺から出られないの
そうだ! それは困るだろ?
目を輝かせた少年がジッとエルカを見た。
だけど、エルカの答えは少年の望むものではなかった。
……いいえ、困らないわ
え?
……私、どうして自分がここに居るのかも、それまでのことも良く覚えていないのだけど。これだけは、はっきりとわかるの……本を読んでいるときが、生きているって実感できるの。
こんなにたくさんの本に囲まれていられるなんて幸せだよ
本に囲まれて死ねるのなら本望だ。
そんなことを言えば兄に怒られるのだけど、その兄は今はここにはいない。
心の向くままに、エルカはここで最高の人生を過ごせるのかもしれない。
そうね、ここには誰かの記憶だけではない。現実の本も、誰かの空想した物語もあるから飽きることはないでしょうね。本好きには溜まらない空間なのよね
え? 空想の物語って……それってどういうの?
実在する本とは別に、書いたり考えたりしたけど。世に出すことのなかった物語のことです。もしかすると作家の未発表作なんて本もあるかもしれませんね
少年の説明にエルカの目は次第に輝きを増していた。
作家の未発表の物語には興味があった。
作者が亡くなったことで未完のままの作品があったことを思い出す。
探せば、その本も見つけられるかもしれない。
何それ、面白そう!
では後ほど用意しますね
ありがとう。それで、貴女は「何」なの? そこの人が物語の主人公ってことは聞いたけど、貴女は彼とも私たちとは違う存在だよね
ええ、私は図書棺の案内人ってところよ。こうやって脱走中の物語の欠片を回収しているの。こんなやんちゃな欠片は珍しいけどね
すみませんねー
図書棺にある本は自由に読んでも構わないわ。読めれば……だけど。その代わり彼の本を探すのを手伝って欲しい。いい加減、私たちも疲れているから
うん!
返事だけは良いのね。それと、本を読むのは良いけど……帰れないのはエルカだけじゃないの。それを忘れないで
コレットの言葉を聞いて、エルカは隣に立つソルを見やる。
……
ソルは黙っていた。その横顔は、やや呆れた表情を彩っている。
エルカと彼らのやり取りの間も黙って見守っていた。
わ、わかってるよ
ソルだって帰れなくなるのだ。
忘れたわけではない。考えていなかっただけ。
エルカとソルは少年に連れられて、図書棺の中を歩いて回った。
この建物は全ての部屋に、本棚が置かれているらしい。
まず訪れた、食堂の壁一面には本が並べられていた。
これ全部、料理の本なの?
はい
食堂と言われた部屋の壁一面は本棚になっていた。
そこに並ぶ本は全て料理の本なのだという。
ソルが近づいて一冊手に取り渋面を浮かべたので、エルカはその本を覗き込む。
読めない字もあるな
それは、異国の料理本になりますね
え? 異国の本もあるの?
はい
料理の本があっても、作るのは難しいよね。食材はどうやって手に入れるの?
ああ、食材はありませんよ
は? 材料がないのなら料理なんて出来ないだろ
ここにはテーブルと本しか置かれていない。
訝しむようなソルの視線に、少年はフフフと笑みを深める。
料理はしませんよ。ここは魔法の図書棺ですからね
意味深な笑みを浮かべて、少年が料理本を手に取りページを開く。
ドーナツ?
そこにはドーナツの写真が写っている。
二人共、このドーナツが食べたい!!って願ってください
え?
は?
突然、何を言い出すのだろう。
二人は訝しげな視線を向ける。少年の真面目な視線が返って来た。
目を閉じて、頭にこのドーナツを思い浮かべて、食べたいと願ってください
………わかった
言われた通りに目を閉じた。先ほどのドーナツを思い浮かべる。
美味しそうなドーナツだ、
(このドーナツが食べたい)
そう、願いを捧げると、ドーナツが現れた。
それは、本に描かれていたものと同じドーナツだった。
え……
魔法ですよ。本を開いて、これが食べたいなぁって願うとその料理が目の前に現れるのです。どうぞ、食べてみてください
………
………
おそる、おそる、口に入れる。
ほのかな甘い香り、柔らかな触感、優しい甘さが口いっぱいに広がる。
ドーナツだ
ドーナツだな
食べ終わると、皿が勝手に消えてしまうので皿洗いの心配もいらない。何て、便利なのだろうと思わず感心してしまう。
次に訪れたのは寝室。
そこには本に囲まれた大きなソファーベッドがあった。
フワフワのソファーは座り心地がとても良い。どうやら、ここは本を読みながら寝る為の寝室らしい。エルカは試しにと、ソファーベッドに寝転がる。
本に囲まれて寝るなんて、なんて幸せなことだろう
エルカは思わずうっとりとしてしまった。
背後で、ソルは呆れ顔を浮かべている。
お前、相変わらずだな
エルカは変な子ですね
わからないの? インクの匂いって気持ち良いのに
いったい、どんな生活していたのですか?
ああ……どうだったかな
エルカは地下書庫に引き篭もっていた。
インクの匂いと埃とカビ臭いあの地下で一日の殆どを過ごしていたのだ。
何よりも心地の良くて、心身を癒してくれる香りだった。
すみません、聞いてはいけないことでしたか?
気にしないで、私は変な子って自覚はあるもの。
………
流行が何かより、目の前の活字ばかりを気にしていた。
とても変な女の子だと誰もが思っていたに違いない。
ふいに視線を感じ振り返ると、ソルが何かを言いたそうにエルカを見る。
? どうしたの
っ何でもないよ………ここにある本は見たことがある
ここに置かれているのは、子供向けの絵本です。眠れない夜に親が子供に読み聞かせるような物語。実在する本なので、二人も読んだことあるのではないでしょうか?
そうかもな。そんな時代がオレにもあったのかもな
………ソル
絵本をめくるソルの横顔は何だか寂しそうな目をしている。
彼にもそういう時代はあったのかもしれない。パタンとソルは本を閉じる。
ソルは何も言わなかった。
エルカも何も聞かなかった。
しばらくの静寂の後、二人はどちらからでもなく部屋を出ていく。
その後を、少年が無言で追いかけた。