気温三十一度なんて、馬鹿げている。
だから、そういう理由だけで、わたしは水族館に行った。

エスカレーターを上がり、目の前、

海野

……………

クラスのはじかれ者、海野が大水槽のまえでぼんやりしていた。

いのちのある場所

家族連れが多いなか、ひとり、水槽に手を当て、ただじっと、さまざまなスピードで泳ぐさかなたちを、眺めている。

水畑

海野

呼びかけて、となりに立つ。ちょうどやってきたさかなを正面でみれるように、という配慮か、返事の代わりにすこし立ち位置をずらした。

まさかこんな場所で、それも日曜のこんな真昼に、それもひとり同士で、鉢合わせるとは思いもよらないから、当然、話題などない。

ゆったりと泳ぐエイや、なまえのわからないさかなの大群などを目で追う。視線をさえぎるように、ちいさなさかながさっそうと泳ぎ去っていく。

気まずさはない。ただ気ままに、それぞれに好きなさかなへと視線を移していく。ふと交わる視線は、だからとくになんの意味も持たない。

どのさかなもくまなくみてしまうと、飽きが来た。声をかけようか迷ったが、まあいいか、と歩き出す。

カツ、とうしろで音が鳴る。ああついてきているんだな、気づいて、よくわからない、なんとも表現できない気分になる。……いや、というわけでは、きっと、ない。

ちいさい熱帯魚ばかりが閉じ込められた水槽がならんでいる。

べつな水槽のまえに陣取っている子供が、有名なアニメのタイトルを大声でさけんでよろこんでいる。カクレクマノミ、っていうんだ、と、母親がたのしげに説明した。

海野

ねえ、

とつぜん声をかけられて、おどろいてとなりをみる。

海野

水族館、好きなの

抑揚のちいさな話し方。尋ねられているようだ。

水畑

うん、まあ、ふつうかな

水族館は、動物園とはまたちがった奇妙さをおぼえる場所だ。

ひろい、ひろい海から連れてこられたさかなたち、いきものたちが、こんなにせまい水槽に一様にとじこめられている。

そしてなんだかんだ言ってわたしは、それを眺めるのを楽しんでいる。とじこめられたいきもの、だから、生きているもの、たちをじっと眺めて、楽しんでいるのだ。

海野

……そう

水畑

……海野は、どうなの

海野

わからない

海野

ただ…………

海野

こんなにせまい場所を世界だと思えたら、世界のすべてだと思えたら、楽かもしれないな、って、ときどき思うよ

水畑

自我があっても、そう思えるの

海野

さかなにだって自我はあるでしょう。餌が与えられて、ただしい水温のなかで、管理されながらも、快適だって感じて、それで、生きてはいける

海野

……あてがわれた世界で、ほかのもっと、ひろい世界があるって理解しながら、そういう世界をうらやんで眺めているより、眺めることができる場所にいるより、ずっと、マシ

海野

一生出られないって、わかってるじゃない、きっと、さかなたちは

水畑

……わたしたちは、出ていける場所がほんとうはあるって、わかっていて、実際そうしようと思えば出ていけるから、それが、いやなの?

海野

逃げてもいいって、言うじゃない、いろんな、赤の他人は。

海野

逃げられないから、ここにいるのに

海野

そんなにかんたんな話なら、無責任な他人に相談するまえに、逃げてるのに

それで話は終わってしまって、どちらからともなく、歩き出した。またべつな子供が、さっきの子供とおなじように、アニメのタイトルをさけんで、はしゃいでいる。

水畑

くらげに、なりたいって、じゃあ、思うの?

海野

どうして

水畑

くらげは脳みそを持っていない、って言うから

海野

それは……いや、かな

海野

ほら、ここに書いてある、死んだら溶けて消える、って

海野

心臓がなくても脳がなくても、水のからだでだって、生きてきたのに、死ぬことに気付けないかもしれないのは、いや

水畑

でも、そっか、海にかえれるのか、海水になって、循環して、

海野

うらやましいの?

笑う彼女にうなずいてみせると、水畑らしいね、と、ますます笑顔になった。

まだ夏でもないのに大盛況のバニラアイスの列にならぶ。照りつける陽光が、海野の白い肌を、刺している。

水畑

はい、アイス

海野

ありがとう

イルカが跳ねる音。イルカショーの準備をしている、イルカも、飼育員も、生きるために。

水畑

ねえ、わたしがちょっとさびしいってことくらい、なんでもないことなんだよ

水畑

海野がつらいって感じていることが、大問題なの、それ以外のことを、よりにもよって海野が、気にするようなことは、ないんだよ

海野

…………

海野

アイス、溶けちゃうよ

コーンにたれだしたバニラアイスを
スプーンですくいとる。

そのすき、

わたしが海野から視線をはずした
そのすきに、海野は言った。

わたしが水畑とはなれて、さびしいって感じることも、おなじくらい、大問題なの

どんな顔をして、海野はそれを、言ったんだろう。

海野

だから、いなくなったりしないから、安心して、アイス、はやく食べよう

ひとはまったく同じ表情なんか、つくれない。

とりあえず、海野もわたしも、生きているから。

いのちのある場所
Fin.

いのちのある場所

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