長い沈黙の後、口を開いたのは彼だった。

???

……まぁこんな所で立ち話も何だし……僕に付いてきてくれる?


 穏やかな声に頷く。

???

ふふ、有難う


 優咲の返答に彼は嬉しそうに笑った。

 それから少し歩くと繁華街から外れる。
 一気に視界が開けたと思ったら静かな波音が聞こえた。

優咲

こんな近くに海があるなんて……


 驚く優咲に彼は悪戯が成功した子供のように……無邪気な笑顔を浮かべた。

???

やっぱり知らなかった?この辺で海と言うともっと大きな所があるもんね


 彼の言葉に頷くと、その表情が真面目な物に変わった。

???

……ここには落ち込んだ時に良く来た。人気が無いから考え事をするのにももってこいなんだ。そう、あの時も……

優咲

……あの時?


 思わず優咲は尋ねたが、彼は困ったような微笑を浮かべただけだ。

???

……ううん、何でも無いよ

優咲

何だか……踏み込んじゃいけないみたい


 彼の様子から優咲はそう察する。
 掛ける言葉を探そうともしたが、結局見付からなかった。

優咲

…………


 思わず沈黙した優咲に喋り掛けたのは……再び彼だった。

???

そんな事より……僕に用があったんじゃないの?だから会いに来た。違うかな?

優咲


 彼の正確な指摘に優咲は思わず固まった。

???

…………


 彼はそんな優咲の様子を静かに見つめている。

 その優しい眼差しに背中を押されるように……優咲は静かに頷いた。

優咲

……はい。用があって……来ました

???

…………


 優咲の言葉を彼は黙って聞くつもりのようだ。
 静かな表情で促す。

 そんな彼に優咲は……意を決して言う。

優咲

貴方の名前はもしかして……近衛ゆ……


 しかし言おうとした瞬間彼の手で口を塞がれてしまう。

???

……それ以上は言わないで

優咲

…………!


 驚く程真剣な表情に優咲は思わず息を呑む。

???

……まさか知られちゃうなんてね。それも……こんな早くさ。折角誤魔化そうとしてたのに


 そう言う彼の表情は今まで見せていた優しい物とは違っていた。
 何かを悔やむようで、どこか苦しそうだ。

???

……あの時、話し掛けるべきじゃなかった。そうしたら君に知られずに済んだのに


 その発言から彼が近衛勇人だというのは明らかだった。

優咲

近衛ゆ……!


 あんまりな発言に優咲は思わず言い返そうとする、が。
 彼が遮るように口を挟んだ。

勇人

僕を名前で呼ばないでくれる?その名前は嫌いだ。その名前を呼ぶ声も


 静かなのに憤りを感じさせる声、読めない無表情……。
 今まで見てきた彼とはかけ離れた様子に……思わず優咲は言葉を失った。

優咲

…………


 そんな優咲に彼は……優しい笑顔を向ける。

勇人

話は終わりかな?それじゃあ僕は行くよ。……それから――


 しかし笑顔で続けた言葉は残酷だった

勇人

もう僕の事……捜そうとしないでね。迷惑だから


 そう言って背を向ける。
 しかしそんな彼の背中が何処か寂しそうに見えたから……優咲はそのまま見送る事が出来なかった。

優咲

待って……下さい!


 後から思うと大胆な事をしたと感じる。
 言いながら優咲は彼の背に抱き着いた。

勇人

わっ!?


 驚いた様子で彼は叫び、よろめいた。

勇人

……ととっ

 何とか転ぶのを堪え、動きを止める。
 反射的に手を離した優咲だったが、このままでは彼が再び居なくなるような気がして……今度は彼の服の裾を強く握った。

優咲の手を振り払う事も出来た筈なのに……彼はそれをしなかった。
 永遠のようにも思えた沈黙の後、静かに言う。

勇人

思っていたより君はずっと……頑固なんだね


 そう言って優しく優咲の手を服の裾から外し、ゆっくりと振り返る。

優咲

…………!


 驚いて息を呑んだ優咲に彼が向けていた表情は……あの優しくて安心する笑顔だった。

勇人

……負けたよ。話も聞かずに去るのはもう辞める


 表情と同じように穏やかな声で彼は言った。
 静かに続ける。

勇人

唯一つ約束して欲しい。僕の名前は絶対に呼ばないで

優咲

……どうして?


 思わず尋ねる優咲に彼は困ったような表情になった。

勇人

それは……ごめん。ちょっと話せない。だけど絶対に約束して欲しいんだ


 真剣な声音で言われると……頷くしか無くなる。

優咲

……わかりました


 結局優咲はそう返したのだった。

to be continued

8 「名前は絶対に呼ばないで」

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