又、駄目だった……

 出版社の入口から出た女は、意図せず言葉を洩らした。



 女は原稿用紙を小脇に抱え、背中を丸めて力なく肩を落としていた。もう数えるのをやめた持ち込みの回数は、優に三桁を越えているだろう。

 貧困の中でまともな教育を受けられなかった女は、独り立ちしてから勉学に励み、小説家を目指していた。

アンタ、
忘れたいことがあるだろう。

 古書が山積みにされた露店通りに差し掛かると、唐突に声を投げられた。声の主は白髪の男で、それも随分と若い。女の陰鬱とした気分を、その根暗い眼で見据えているようだった。

…………

オレは占い師。
アンタは他の人とは
違うものを感じる。

お金はありません。
それに占いなんて
今は興味がないの。

オレが興味あるんだよ。
タダで占ってやる。

それなら私の作品を
読んでから占って。
遠慮せずに答えて、
私は物書きになれる?

 男は快諾して女の小説を読んだ。

素人のオレから見ても
アンタの文章は稚拙だ。
とても人様から金銭という対価を
得られるものではない。

そ、そう……
やっぱり、

でも文章力は徐々に
努力で向上させられる。
オレがアンタに話し掛けた理由。
それはアンタが普通の人には
想像もつかない体験をしてきた、
そう感じ取れたからだ。

なぜ、そんなことを
言い切れるの?

言ったろ、
オレは占い師だ。

…………

どれほど多くの文章や物語を読み
創作のノウハウや技法を学んでも
得られぬもの――――
それは、本物の体験。
億の文章でも、
一つの実体験には勝らない。
どれだけ上手に描写しようが、
肉迫たる経験一つには勝らない。
読者の心に深く刺さり
留まるのは体験の強さ。
アンタはそれを持っているはず。
涼やかな文章にはおさまらない
アンタの歴史。
体験の深みが、厚みが、濃度が、
作品に色を与える。
アンタはそれを
自分で持っていることに
気付いていないだけだよ。

体、験……

これを持っていきな。
何でも一つだけ忘れられる手紙。
不思議なこと言ってると
思うだろうが、
これは本当に力のある手紙。
心の底から忘れたいと
思っていることを願えば
封蝋は開く。

いたずら?

それはアンタが知らぬ体験だから
そう思うだけだ。

じゃ、今日出版社で
ののしられたこと
忘れたいかな。

言ったはずだ。
心の底から忘れたいことを
願わなければ駄目だ。

忘れたいこと……

 忘れたいこと・・・・・・

 耳に残るその男の低い声は、その場を去った後も女を悩ませた。忘れたいことなどいくらでもあるからだ。














 女はコインロッカーベイビーだった。



 低所得者が暮らす掃き溜めのような街から一番近い駅。その汚く狭いロッカーで発見された。熱中症で大人でも倒れる真夏の正午、息も絶え絶えの未熟児は、生きていることの証を鳴き声で知らせた。

 駅員が発見した彼女は、使い古した雑巾と大差ないぼろ布に包まれていたそうだ。

 命は繋がった。だが、その後入った施設が酷い場所だった。



 身寄りのない虚弱児は、周囲の者のストレスの捌け口にされ続けた。日課のように暴行を受け、心ない罵声を浴び続け、不衛生な部屋で暮らし、少ない食事も奪われる対象となった。



 逃げ隠れていた施設近くの狭い路地。そこも見付けられ、犬のように鎖で繋がれた。雨の日も、うだるような夏の日差しの下でも、そこが女の住処となった。しかもそれを行ったのは教師だったのだ。

 忘れたいこと……。

 女は最初、半信半疑だったが、頭にこびり付く男の言葉に導かれるように過去を振り返っていた。

あそこで暮らした日々。
あんな記憶なんていらない。

 封蝋は固く閉ざされ、開かない。
 女にとって思い出したくない記憶に違いないものなのに。

あの人が嘘を言ったり
騙したりすると思えない。
何故だかわかる。
不思議なことだけど。

 硬く閉ざされた手紙を前に、女は深く思い出す。永遠とも思える虐待の日々を。

 書物と出会い、どんな苦境にも耐え抜き、苦学を重ねた。小説家になる夢も出来た。まだまだ普通の人のレベルに達していないけれど、書物が、物語が、女を前向きにさせた。

 だが、もう一度深く振り向いてみる。

大人になるまで
親という言葉も
知らなかった。
私にあったのは
空腹と痛みだけ。

 やがて行き着く――

……親。
全く知らないけど、
確かにいる。
その親! 私の両親!

 手紙は簡単に開いた。独りでに開いたと錯覚するほどに。

 親の記憶。会ったこともない、知ることも叶わない親の存在。忘れたいと心底思っていたのは女を捨てた親の存在だった。

 繋がれていた景色、女の全てだった景色。これは脳裏にではなく間違いなく今、女の目の前に広がっていた。

全ての源である
親の存在。
この手紙を破れば
忘れられる。
この場所での
痛みも!
飢えも!
孤独も!
寝ても覚めても
こびり付いて離れない
あの牢獄を忘れよう。
苦しむことも二度とない。

そう! 私を捨てた親!
真夏のロッカーに
産まれたての私を捨てた!
苦しみの元凶!!

 手紙を両手で鷲掴みにして、今にも引き裂こうとする女。哀れで惨めな悲鳴を隠そうともせず発する。

捨てられた!

 生来、美しく生まれた顔立ちは、どうしようもなく溢れる涙で乱れに乱れた。四半世紀で刻んだ労苦の傷から、血液が脈打つのがわかる。

…………
涼やかな文章にはおさまらない
アンタの歴史。

 露店通りの占い師の男。脳裏にはっきりと映ったその男の言葉が浮かび上がる。



 親がいるという事実を忘れたい。根源であるそれは意識せずとも心を蝕み続ける。それほど悲惨で過酷な過去だった。

『体験の深みが、厚みが、濃度が、
作品に色を与える。
アンタはそれを
自分で持っていることに
気付いていないだけだよ』

 男の言葉が再度蘇る。



 手紙を破いてしまうのは簡単だ。あと僅か力を入れればいい。そうしたら全てを忘れられる。



 忘れたい……
 逃げ出したい……
 癒されたい……
 終わらせたい……






 ただ破いてしまっては、自分が自分でなくなるような気がした。夢を見れた今の自分さえも。



 誰からも愛されなかった。
 救いようのない環境で育った。
 誰から生まれたかも知りようがない。 

それでもいい。

いつどこで誰から
生まれたのかは問題じゃない。
今ここに居る自分が
何をしているか。
何をしようとしているか。
それが重要なんだ。

 女は手紙をそっと封筒に戻して、歩き始めた。

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