春、いりませんか?

とばり

君はなんだ?

なにに、みえますか?

……言葉遊びをしたいんじゃない。さっきの言葉はどういう意味だ

そのままの意味です

いりません? 春

暗闇のなかに浮かび上がる少女の白い細腕が病的で、なぜだか恐怖さえ覚える。

買ってほしいなら他をあたれ。じゃあな

つまらないひとだなあ

つまらないひと

……なんだって?

別に、そのままの意味ですよ

声をかけた相手はだれでもそんな反応をするので、ああまたおなじかあと思っただけです

わかった、買おう

冷静じゃない、わかっている。

けれど「つまらない」の言葉は、少女にとってはなんでもないただの感想でも、自分にとっては聞き捨てならない言葉だった。

どこまで行くつもりですか?

君が決めればいいだろう

どうしたらいいかわからないなら、そう言えばいいのに

……っ

ふふ、ちょっと面白くなってきましたね

……は?

能面みたいな顔が焦りを滲ませるのは、面白い

失礼だな

いいじゃないですか、綺麗な顔のひとは真顔だと怖いですし。そのくらいのほうが人間らしい

冗談は行動だけにしてくれ

冗談? わたしの行動も言葉も、全部本気ですよ

…………

ところでどうして徒歩なんですか?

……?

どうして国民的俳優が徒歩で帰宅しているのかと訊いてるんですよ

……気づいていたのか

当たり前でしょう、馬鹿ですか

どうだっていいだろう、別に

後ろ姿だけならただのサラリーマンにみえましたよ

だから声をかけたのに驚いちゃった

まさかあの……

呼ぶな

…………

呼ぶなよ

わかりました

乾いた靴音だけが暗闇に響く。静かだ。静かな夜だ。

ところで、買っていただくからにはわたしもやるべきことをやりたいんですけど、いつになったらその気になってくれます?

やるだけが仕事じゃないだろう

金を払って君の夜を買うのはおなじことだろう。話を、聴いてくれればいい

わあ、しおらしい

でもどうしましょう、春を、と言ったのに

俺の金だろう、好きにさせてくれ

…………

わかりました

公園で夜を越すなんて初めてですよ

そんなの、俺もだ

缶コーヒーの熱さが思った以上で驚く。公園も買ったばかりの熱い缶コーヒーも、すべて久しぶりのものだった。

あなたのようなお客も初めてですし

客じゃない

じゃあなんだっていうんですか

対等な取引相手だ

やだな、笑っちゃいますよ。客と商売人だって対等な取引相手のはずでしょう

はっ、冗談はよせ

卑屈ですねえ。どうしてそんなにぐんにゃり曲がっちゃったんですか

まっすぐな人間なんてどこにいるんだ

さあ、わたしが知りたいくらいです

…………

いないだろう、そんな人間

すくなくとも、わたしはそう思います

でも俺は馬鹿なことに、まっすぐな人間だっていると信じていた

そういう風に思わせるようなひとにでも出会ったんですか

……ああ、そうだ

ああよかった、退院したのね

お見舞いに来れなくてごめんなさい。でも元気そうで安心したわ

仕事がつらいならやめちゃえばいいのよ、私はあなたが生きていてくれさえすればそれでいいのに

ねえ、倉橋さんとどうなのよ

え? どうって……正直もう、別れたいのよね

顏がよくても、教科書通りは駄目。あんなにつまらないひとだと思わなかったわ

それに、重い。つまらない上に重いなんて、もうどうしようもないじゃない

やだ、ひどいなあ。私いっちゃおうかな

えー、やめておいた方がいいわよ、ほんと

昔から、一緒だった。居心地の良さは家族さえ敵わないほど。

仕事の相談相手から、自然と恋人になっていた。

支えだった、そして時に救いだった。

終わりなんだよな、だれかひとりのことを自分のすべてだと思い込んでしまったら

でも救われた自分は紛れもない真実だって、まだ思ってしまっているから、馬鹿だよな

少女はなにも言わない。ただ、なにかを否定されたような、衝撃を受けたような、そんな傷ついたふたつのひとみがこちらをみつめていた。

……救われたことまで馬鹿みたいなんて思う必要ないんじゃないですか

寂しすぎますよ、それじゃああんまりにも、寂しすぎますよ

言い聴かせるような言葉ふたつ、それは俺へか、はたまた––––––––––

さて、もう二時間ですか。一時間いくらだと思います?

次の瞬間にはもう、この夜の始まりに春を売りつけようとした勝気な少女が財布片手に笑っていた。

いくらだって、いいよ

さすが、高給取り

とばり
Fin.

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