ゆかりは、死んだはずだった。

立体駐車場の屋上から落ち、アスファルトに叩きつけられ、そうして「あれ」が望むように命を落としたはずだった。

屋上から地面までの高さを考えたのなら、ほぼ即死。

生存確率は、絶望的だった。

だのに、目覚めたとき、ゆかりがいたのは、私立探偵である野口有紀の自宅兼事務所だった。

彼――否、彼女というべきか。
野口は、目覚めたゆかりに対して、何も言わなかった。

好物だという棒状の駄菓子を始終くわえたままで、彼女が口にしたことといえば、自分が女であるということと、ゆかりが未だ息をしてそこにいる理由と――身に覚えのない事実だけ。

何も、聞かないんですね

そりゃあなあ

と、野口は頭を掻いた。

聞きたくないわけじゃあないさ

だが、
僕より先に聞くべき相手がいるだろう?

誰、とは言われなかった。
誰、と聞くまでもなかった。

……っつ……

だからこそ、ゆかりは今、包帯でぐるぐる巻きになった身体を引きずり、夜の中を歩いている。

息を切らせ、傷の痛みに顔をしかめ、それでも、教えられた場所を目指して、ひたすらに足を動かす。

さびついた手すりをつかみ、踏みしめるようにして階段をのぼっていく。

一歩、また一歩と、たしかにその場所へと近づきながら、思い出すのは、すべての始まりとも呼べるできごとだった。

あれはまだ、ゆかりが中学生だったころ――
まだ、「作家」としての人生を歩み始めたばかりのころ――

積もり始めていた雪を踏みしめて、ゆかりは公園を横切っていた。

その先にたたずむのは、半袖のシャツを着た一人の少年。

身動きひとつせずに立ち尽くす少年は、ずいぶんと長いこと、そこにいたのだろう。
肩にも頭にも、綿のような雪が積もっていた。

きみ、だめだよ。
こんな雪の日に、そんなところにいたら

変声機を通した自分の声が、少年へと投げかけられる。

けれど、自分に声をかけられていると気づいていないのか、少年はぴくりともしない。

きみ

ゆかりは、もう一度だけ呼んで、その肩にふれた。
そこで、ようやく少年が振り返るようなそぶりを見せる。

ゆかりは少年の肩に積もっていた雪を払い落としながら、言葉を続けた。

ほら。
雪が積もって、身体もこんなに――

そこから先へ繋がるはずだった言葉は、音にならなかった。

少年の首には、金属質な枷がついていた。
鈍く光るそれに刻まれていたのは、文字。

71E4

気づけば、口でなぞるように読みあげていた。

少年が、顔をあげる。
頭に積もっていた雪が、落ちた。

ゆかりも、視線をあげる。

風に混じっていた雪が、ふたりの頬をかすめた。

見開かれた少年の目と、ゆかりの目が合う。
金色に輝く瞳と、焦げ茶の瞳が、かち合う。

きみ、名前は

……なまえ?

そのとき、初めて少年は言葉を発した。
不思議そうな、声色だった。

束の間の沈黙。

やがて、ゆかりは膝をつくと、自分の巻いていたマフラーを外し、少年の首に巻いた。

カヲル

ぽつりと、呟くように言った。

きみの名前は、カヲル

71E4の天地をひっくり返して、カヲルだ

もの悲しげに、風が鳴く。

解体工事を間近に控えたマンションの屋上に立つ人影は、待ち構えていたかのように笑みを浮かべた。

やあ、ゆかりちゃん。
もう動いてもいいのかい?

それは彼の、なんら変わりのない、「普段どおり」の態度だった。

学校の前で会うとき、喫茶店で会うとき、はたまた道端で会うとき、彼はいつだってこんなような調子だった。

…………

けれど、今となってはそれこそが「不自然」でしかない。

ゆかりはもう、それに応じることができない――したくない。
そうでなければ、無理を押してまで、ここへやってきた意味がない。

このままじゃ、
きっと、誰のためにもならない

沈黙を守り、ただただ白髪の青年を見つめる。

視線の先で、貼りつけられたような笑みがわずかに歪んだ。

それとも、

薄く、金色の瞳が開かれる。

こんなところに来て、あんたはまだ、死のうっていう魂胆なのかな――先生

彼の、カヲルの、押し殺されていた感情が、むき出しになる。

……っ

ぞっとした。異様なまでの、威圧感があった。
それでも、逃げだすことだけはできない。

ゆっくりと、ゆかりは唇を開いた。

違うよ

だったら、なんであんなこと言ったの。
これで終わる、なんて

……あれは

思わず、言いよどむ。

生と死の境目。
朦朧とした意識の中で、たしかに口にした言葉。

そして、その真意。

覚悟はしたつもりだったのに、いざすべてを語ろうとすると、うまく言葉にすることができない。

あんたがそうまでして死にたいのは、俺のせいなの?

存在しないはずの俺が、ここにいるから?

!!

ゆかりは瞠目した。

驚愕の目で、カヲルを見る。
いつの間にか、その手に掲げられていたのは、見覚えのある紙束――

読んだよ、これ。

おもしろい話だね?
この町を舞台にして書かれてる。

俺が人に造られた生物兵器であることも、超能力を使うことも、枷を壊したとき首に傷が残ったことまで、ご丁寧に全部書いてあった――

ただひとつ、
あんたと過ごした時間だけを除いて

それは

おかしいったらない!

ゆかりの言葉を遮り、カヲルは声を大きくした。

芝居がかった仕草で両手をあげ、まるでゆかりに喋らせまいとするかのように、カヲルはとうとうと言葉を続ける。

俺がどれだけ調べても、先生の情報が見つからないわけだよ。

同じ月萩という町に暮らしていながら、文字通り生きてる世界が違ったんだ。

そもそも、出会うことそのものが奇跡みたいなものだった

なにせ、俺はあんたが書いた物語の登場人物なんだからね!

歪な顔で、カヲルが笑った。

俺の過去も、苦しみも、すべて、あんたの仕組んだことだったんだろう?

今さら、罪悪感にでも耐えられなくなった?
だから、死のうって?

違う! そういうのじゃない!

ゆかりは声を荒げた。
たちまち、喉が、肺が、悲鳴をあげた。

咳きこんだゆかりは、床にうずくまって血反吐を吐いた。

それでも、ゆかりは口を閉ざさない。

カヲルの生い立ちも、癒えない傷も、物語として私が書いたことだよ

カヲルと出会って、一緒に過ごして、罪悪感にだって駆られた

続きを書くことが、こわくなった

この手に乗った命の重みに、心が耐えられなかった。
原稿を処分することさえ、彼を殺すことになるようで、できなかった。

だから、あの日――
始業式の日に、原稿を持ち出した

気持ちを、新たにしようとした。

あなたが幸せな結末を迎えられるようにしたかった――きちんと、終わらせたかった!

決して死のうだなんて、考えていなかった。
死にたいだなんて、思っていなかった。

けれど、風にさらわれた原稿は、大事なところだけが欠け、物語は終わりを迎えることもできないまま、またさらに時だけが過ぎた。

そして、ゆかりは「あれ」と出会った。

自分と――「都々楽ツユリ」と、まるきりそっくりな姿をした「あれ」と。

あのとき。
ゆかりとともに屋上から落下していく最中。
「あれ」は囁いた。

物語は決して閉じない。
なぜなら、物語は欲している。

ほかでもない、
きみの魂を欲している――

ならば、この魂を捧げれば物語は閉じるのか。
終わるのか。

――彼は、幸福な結末を迎えられるのか。

魔がさした。

どうせ、ゆかりは空なんて飛べやしない。
このまま落ちて死ぬのなら、それで「終わる」のならと、そう思ってしまった。

ごめん――ごめんなさい――

私、あなたを幸せにしてあげられない――

ゆかりはうめいて、顔を覆った。

手が血で汚れても、醜態をさらしても、ただカヲルに涙だけは見せまいとした。
だって、自分には泣く資格なんてない。

それだというのに、近づいてきた足音の主はゆかりの手を顔からはがした。

そして、無理矢理に目を合わせる。

なら、あなたを追い詰めたのは、
俺じゃないんだね?

あの日、ここから飛び降りたのも、
あなたではなかったんだね?

うなずくことで、ゆかりは答えた。
声に出したら、今にも嗚咽がこぼれてしまいそうだった。

――そう。よかった

心底、安堵したというような声音だった。

怪我を気遣うように、ゆるく身体を抱きすくめられる。

ずっと、俺があなたを死に追いやろうとしていたんだと思ってた

そんなこと

黙って。傷に障るから

っ……

ぴしゃりと言われ、ゆかりは反射的に口をつぐんだ。

いい子だね

と、耳もとで声がする。

昔とはまるきり立場が逆だと、今さらになってそんなことを思った。

そういえば、カヲルが熱を出して倒れたことあったっけ……

被験体ナンバーの刻まれた首枷を壊して、怪我をして、ろくに手当てもしないでいたから、傷口が化膿していた。

ゆかりは「都々楽ツユリ」として、カヲルの熱がさがるまで看病した――

俺は、あんたの魂なんて捧げられても困るよ

いくら闇医者だって、
死んだものは生き返らせられない

…………

――それに、
俺はもう十分に幸せをもらった

そう囁く声は、これまでに聞いたどんな声よりも穏やかで、やさしく、まるで――

ことの顛末について

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