私が、彼と初めて出会ったとき。
彼は、まだほんの幼子だった。

背に負うことは容易く、手を繋ぐには、少しかがまなければならなかった。

次に出会ったとき。
彼は、十代かそこらの少年だった。

手を繋ぐことに不便はなかったが、彼は私に負われることをひどく嫌がった。

そして、今。
彼は、私の身長を遥かに超える立派な青年となった。

私の手を引き、重荷を抱え、底の見えない瞳で笑うようになった。

何の変哲もない、時の流れである。

しかし、奇しくも事実とは、いつだって、小説よりも現実を逸しているものなのだ。

――都々楽ツユリ 

月萩町に一軒しかない駄菓子屋の袋をぶらさげながら、マンションの屋上に立つ。

老朽化が進み、マンションの住民が去ったのは、どれくらい前のことだったか。
とうとう数日前に取り壊しが決まったそこには、今や人の姿はおろか、気配すらない。

わかっちゃいたが……

ここまで静かだと、
さすがに、さびしいもんがあるねえ

タバコを模した菓子を口にくわえ、ひとり呟いた。

今でこそ廃墟同然のマンションだが、自分にとっては生まれ育った家だった。
同じ時代を過ごし、同じ年月を重ねてきた。

当事はまだ、マンション内での近所付き合いが盛んだったせいか、各家庭の事情はそれとなく知っていた。

住民たちが助け合う、まさしく理想的なコミュニティが築かれていた。
住民の孤立を嘆かれる現代とは違う。

懐かしいもんだ

ぱきり

くわえた菓子に歯を立てれば、小気味いい音が、町の喧騒も遠くなった夜気をふるわせる。

しかし、かつての賑わいを思い出すほどに、今この瞬間との格差ははっきりと浮かびあがっていく。
無力感にさいなまれる胸を落ち着かせるように、深いため息を吐いた。

そのときだった。

足音が聞こえた。

ひとつは、階段を駆けあがってくる軽い足音。
もうひとつは、それなりの質量を感じさせる重い足音。

とっさに貯水槽の裏に身を隠し、息を殺した。

誰だ……?

他人のことを言える立場ではないが、こんな時間に、こんな場所へ来るなど、ろくな人間だとは思えない。

このところ幅を利かせているという近所の悪ガキか。
それとも、「そちら側」の人間か。

金属のステップを踏み鳴らす音が、大きくなっていく。
比例するように、体内にある心臓もまた、音を大きくしていく。

しかしながら、それは妙だった。
軽い足音は急いているというのに、重い足音は妙に落ち着いたリズムを刻んでいる。

陰からようすをうかがえば、一人の少女が屋上へと駆けあがってきたところだった。

…………?

思わず、眉をひそめる。
なぜなら、こちらの少女もまた奇妙だったのである。

…………

肩で息をする少女は、その顔をキツネの面で隠しており、着ている制服にも見覚えがない。
知り得る限りの情報では、月萩町にある学校が指定しているどれとも異なっている。

少女が周囲を見渡すように首を巡らせると、ふいに若い男の声がした。

先生、どこへ行くんです?

よく通る声が、月明りの下で異様なまでに響く。

弾かれるようにして、少女が再び駆けだす。

その姿が死角へ消えると、今度は闇に浮かびあがるような白い人影が屋上へと現れた。

白いロングコートをはためかせるそれは、一人の青年だった。
いわゆる銀髪というものなのか。
風に揺れる髪は、月光を浴び、淡く光を帯びている。

ひどいな

青年は、少女が消えた方角へと顔を向け、笑った。

俺がわからないわけじゃないでしょう?
逃げなくたっていいじゃないですか

…………

返る声は、ない。
聞こえるのは、少女のものと思しき靴音だけだ。

状況をより正確に把握するべく、はしごに手を伸ばす。
音をたてないよう貯水槽の上へと登り、

!!

息をのんだ。

なんの、つもりですか

先ほどまでとは異なり、明らかな困惑をにじませた青年の声。

…………

対する少女は、青年に背を向けたまま、振り返ることすらない。

――足場など、ほとんどない、錆びついたフェンスの外側で。

先生、
そんなところにいたら

…………

青年の呼びかけにも答えず、仮面の少女はフェンスの外にたたずみ続ける。

…………

…………

…………

互いに沈黙し、身じろぎひとつしない様は、ある種の攻防でも行っているかのようだった。

得体の知れない緊張感が漂う。

やがて、しびれを切らした青年が足を踏みだすのと、少女の身体が傾くのは同時だった。

!!

!!

口にくわえていた菓子が、落ちる。

視界から少女の姿は消え失せ、それはおそらく青年にとっても同じことだった。

刹那、屋上に取り残された青年もまた、言葉を失くしたかのように思われた。

しかし、

――ちっ!

ひとつ舌打ちをしたかと思うと、屋上の床を蹴り、助走を殺すことなくフェンスに手をかける。

そして、少女の後を追うようにして、その身を夜へと投げていた。

お、おい!

あわててあげた声もむなしく、白いマフラーは風にたなびき、闇夜へとのまれた。

貯水槽から飛び降り、急いで駆け寄ったフェンスの下には、底の見えない黒が淀んでいる。

呆然とするしかなかった。
心臓が、早鐘を打つ。

くそっ!
とんでもないことになりやがった……!

とにかく、救急か、警察に連絡を――

携帯の入ったポケットをまさぐり、三つの数字を押す。
コール音を鳴らすそれを握りしめながら、手は凍えているかのように、ふるえていた。

ことの始まりについて

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