ガラス製の美しい刀身を携えたそれは、彼がずっと使ってきた、云わば相棒と言って差し支えない代物だった。
何よりも脆く、そして強いそのナイフは、まるでそこにあることが当然だというように、彼の手に収まっている。しかし、彼はそれを躊躇いなく私に差し出しているのであった。
私がなかなかそれに手を伸ばせずにいると、彼は半ば無理やりそれを私の胸元に押し付けてきた。無理なその動作に、彼の掌が少し切れる…しかし、そこから血は流れなかった。
これは、あなたに預けようと思います
ガラス製の美しい刀身を携えたそれは、彼がずっと使ってきた、云わば相棒と言って差し支えない代物だった。
何よりも脆く、そして強いそのナイフは、まるでそこにあることが当然だというように、彼の手に収まっている。しかし、彼はそれを躊躇いなく私に差し出しているのであった。
私がなかなかそれに手を伸ばせずにいると、彼は半ば無理やりそれを私の胸元に押し付けてきた。無理なその動作に、彼の掌が少し切れる…しかし、そこから血は流れなかった。
……どうして、これを、私に…?
掠れた声で聞くと、彼は即座に返す。
あなたが、1番信用できるから…というのでは、ダメですか?
……私は、もう時期ソワレ家を出ることになる…私に、力は無くなるわ…
今まであなたは、守る力を持つ人に、ソレを預けてきた…なのに、その力を時期に無くす私に預けるのは、何故…?
……そのナイフに、力は必要ありません。ソレは、力を持つ者が持ってはならないものです…
ほら、私がいい例でしょう?そのナイフに近づきすぎたせいで…私は、こんな最期を迎えるしかなくなってしまった…
下手に力を持つ人には託せない…私自身には、コレは到底守れるものじゃない…
そんな折に…どうでしょう。ちょうど良くなんの権力も持たんとする女性が現れました…適任でしょう?
笑顔で言い放つ彼に、私は何も返せなくなってしまった。その様子を感じ取ったのか、彼は一度私の頬を撫ぜた。
そうですね…それは、結婚祝いです。スノーボール公…彼は、信用に足る人物です。私が言うのだから、間違いありません
……結婚祝いなら…式場で渡してよ…あなたのことは、大嫌いだけど…ちゃんと、呼ぶから…
…………
どうしてそんな顔で、首を振るの…?
理由は、よくわかっている…彼自身の命は、もうそこまで長くない…私の挙式まで、彼は生きていられないのだ…彼としては、決して…。
魔王の遺産の中で、一番力が強いのは、この『イノセント・ナイフ』です。これは、それを最後まで手放せなかった私の落ち度ですね…自惚れていました…
私が、クラバットとして活動を始めてすぐに、バレていたのでしょうね…私が、一人でゲーテ家の宿命に逆らったこと…
ソレは、私を縛る最後の楔…我々の、負の連鎖を断ち切るのに邪魔な異物…魔王が、最後に足掻いているのかも知れませんね
………なら、あなたも足掻いてよ…
足掻きなさいよ!!生きたいって…足掻いてよ…!どうして…そんな、諦めて…!
もう私は散々足掻きました…でも悲しいことに、先方が強かったのですよ。仕方ないことです…これは、仕方の無いことです…
そんな…そんなの…嫌…認めない…!!
手渡されたナイフを地面に叩きつけ、私は下を向いた…しかし、ナイフは傷一つなく、そこに存在していた。それが、『お前達にはどうにもならない』と嘲笑われているようで、ひどく居心地が悪かった。
………そうだ、忘れていました
彼は間の抜けた声でそう言うと、私に歩み寄った。そのまま引き寄せられ、私は彼の腕の中にすっぽり収まる形になる…
な、なにすーー
思わず伏せていた顔を上げ、彼に抗議しようとすると、唇になにか暖かいものが触れた。数秒とせずに離れたそれは、紛うことなき彼の唇だった…
なっ……!!
驚きと羞恥で顔を真っ赤にする私をよそに、彼は足もとのナイフを拾い上げ、もう一度私に差し出した。
すみませんね、予告もせずに…
あなたの唇、確かに頂戴いたしました。これは、そのささやかな置き土産です
これを、被害者として聞く日が来るとは…
『ささやかな置き土産』…これは、怪盗クラバットの決まり文句だ。今まで何人の富豪が、この言葉に戸惑い惑わされてきただろう…。
やはり手を伸ばさない私に、彼は…怪盗クラバットは、寂し気に微笑んだ。
最後の犯行くらい、綺麗に成功させてはもらえませんかね?
………………
!
私は、彼から乱暴にナイフを奪い取り、そのまま走り出した…何か言われた気がしたが、それは私の耳に届くことは無かったーー
……さようなら、マルガレーテ=ソワレ…あなたのことを、愛していましたよ
ーー数日後、東の大貴族・ゲーテ家の所有する邸宅が大火事に見舞われた。人里離れた場所にあったことが災いし、消防隊の到着が遅れ、邸宅は住人もろとも全焼したという…
当時、邸宅内にいたゲーテ家当主・アルバスター=ゲーテも、例外ではなかった。
警視総監の邸宅が墜ちたということもあり、市警局の調査も迅速かつ綿密に行われた…しかし、犯人は分からず仕舞い。最終的には、同時期に活動自粛を公表した怪盗クラバットが、最後の足掻きとして火を放った…という現実味のない事件として収束した。
間違っていないといえば、間違っていないが…なんだか、腑に落ちない。
怪盗クラバット…最後に、結婚が決まっている私の唇を奪った、最低、最悪な男…
あなたから貰い受けたナイフは、今も冷たく光を照り返しています。それはいつか、あなたの裏切りを助けた私をも貫くことでしょう。
でも、それまでは…私も何とか、これを守ってみせる。
あなたが、信じて託してくれたのなら、尚更ーー
……愛していたわ、アルバスター=ゲーテ…私の、初恋の人…
青く澄んだ空に、光を覆う大きな雲が立ち込めていた…まるで、ナイフへの光を遮る、大きな掌のようでしたーー
お題deストリエ 第一回
お題【夏雲】
互いに愛し合っていたのに、立場や環境が一緒にいることを許さない。
とても悲しいことだと私は思ってしまいますが、想いは永遠にその胸の中に、ということなんでしょうね。