リズミカルなノック音の後、豪快な登場を果たしたのはミシェルであった。つま先立ちで軽快にフラメンコのステップを踏むと、最後に謎の決めポーズをした彼に、ベルは振り返りもせずに、
ベル殿―!
少し息抜きに僕と万博ランデブーしないかな?
リズミカルなノック音の後、豪快な登場を果たしたのはミシェルであった。つま先立ちで軽快にフラメンコのステップを踏むと、最後に謎の決めポーズをした彼に、ベルは振り返りもせずに、
お引き取り願うわ
と冷たく言い放った。
左手は羽ペン、右手はあしらうように振り払う仕草をするベルに、ミシェルは涙目になる。
最愛の幼馴染にその態度はないじゃないか!
その言葉に鼻で笑ったベルは羽ペンを置いた。
幼馴染というか、半ば腐れ縁のようなもの。
そのせいで、お互いに考えることは嫌なほど知悉(ちしつ)している。
あいにく、あんたと機知に富んだ四方山話(よもやまばなし)をしている暇はないのよ
と言いつつ、こっちを向いてくれるあたり優しいじゃないか!
秒針が一回転する間に本当の用件を言いなさいな
やっぱりいつも通り鬼畜だった……ぐすっ
ミシェルはベルの部屋にあるドレッサーの鏡で自分の顔を確認し、
うん、イケメン。よし
と身だしなみを確認した後、指をパチンと鳴らした。
すると、少し不服そうなジョルジュが空色のサテンの布に包んだ”なにか”を部屋に持ち運んだ。よしよしとミシェルは満足そうに頷き、腕を組む。ベルは反して、顔をしかめる。
さぁて、このガラスの靴に見覚えは?
あるわねぇ
ほう、では、あのガラス細工の少女、アイリスは何者かな?
ベルは苦虫を噛み潰したような顔でミシェルを一瞥し、頑なに口を閉ざしたまま、剥製のレオを抱きしめる。レオを見たミシェルの笑顔が凍りつくが、何事もなかったかようにまた笑顔を浮かべた。
ブローニュ家総出であのお嬢様を探したけど、見つからない。さてはベル殿……あの子は一般庶民かな?
感情が昂るミシェルの頬は紅潮し、それに比例してベルの頬は青ざめていく。
――だとしたら?
ベルの短い問いかけに、ミシェルは堂々と腰に手を置いて断言した。
だとしても、構わない
つまり?
僕の妻にしたい
はぁ!?
意表を突かれたベルは危うく大切なレオの剥製を落としかけるが、ひしと受け止める。
断固反対するわ。そもそもねぇ、自分が第一のナルシストなあんたが他の人を第一に想うわけないじゃない。鏡にキスしている暇があったら、女性の唇を奪ってみなさいよ
失敬な! 僕がまるで自分をこよなく愛してて、女性経験がない男みたいに言うとは、心外だ!
足が小刻みに揺れてるわよ。
――全く!
ベルはこめかみに人差し指を押し当てたまま立ちあがると、扉へ一直線に進みだした。涙目でその後姿をぼんやり眺めていたミシェルだが、ベルの情けの一言で顔にぱっと花を咲かせる。
あの時の『アイリス』とは別人みたいでも、その気持ちは変わらないわけ?
変わらないなら、会わせてあげないこともないわよ
ほ、本当かい!?
ただし! あの子を泣かせたらその時はあんたを蝋人形第58体目にしてやるわよ
目が本気すぎて怖いよ、ベル殿! りょ、了解
ん? ベル殿、この絵はどうしたんだい?
今、目の前にいるベル殿より別嬪さんが描かれているではないか
やっぱりあんたは蝋人形になる運命ね。ふんっ……それはわたくしのお抱え芸術家が手がけたものよ。
ちなみに、その別嬪さんは残念ながらわたくしよ
ええー! ごほんっごほんっ。
えっと? いつの間にこんな凄腕の芸術家を雇ったんだい? 名前は? どんな奴なんだ?
名前は、エリオ・エスポージト。
イタリア生まれとは聞いているけど、それ以外は知らないわ。
なんせ、とっても謎の多い男なのよねぇ
エリオ・エスポージトは、1452年にフィレンツェ共和国(イタリア)のヴィンチ村に生まれた。周囲の人間はおろか、彼自身でさえ自分のことを「正確に覚えていない」ため、謎のヴェールが濃い人物であろう。
エリオは、23歳に至るまでの記憶はきちんと脳内に残っている。
かの有名な巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチと同い年に生まれ、隣同士の家で育ち、同じ芸術家としての道を途中まで一緒に歩もうとしたのだ。
その頃のエリオは、エリオ・ダ・ヴィンチという人間として生きていた。
レオはいいよなぁ。天才で
エリオの口癖は、満面の笑顔で紡がれる。しかし、その笑顔はよく見ると左右非対称で、とても不自然なものだった。
……天才じゃねぇよ。例え、エリオ。お前の目にそう映るとして、親父からは”いらない子”として暴力を振るわれて、物心がつく前に母親が蒸発した俺が――本当にいいと思うのか?
エリオは失言だった、と反省をする素振りを見せる。
ごめんよ、レオ。そうだったな、お前は親に恵まれなかった。本当にごめんな
エリオにも芸術の才能はある。しかし、真の天才の横ではその才能は霞んでしまうのは事実だ。いつしかエリオは、家族同然で育ったレオナルドに対して嫉(そね)むようになっていた。
もちろん、大切な家族のような存在でもあるから縁を切りたいわけではない。そんな矛盾からエリオに生じたものは、『二重人格の性格』と『左右非対称の顔』であった。
表の顔は、レオナルドと仲良くしたい親友面が。裏の顔は、親に愛されていない点や友だちがほとんどいない点に優越感を覚えて嘲笑する敵面が宿っている。
レオ、大丈夫さ。俺はずっとお前の友だちだからな
この時のエリオの言葉は、本心のつもりだった。
その言葉への返事はなかった。代わりに、レオナルドは脈絡もない話を持ち掛ける。
エリオ、お前は洞窟の夢を見たことがあるか
は……?
エリオはぎこちない笑顔のまま固まり、生唾を飲む。時々、レオナルドはおかしなことを言う。
まるで1秒1秒違う世界で生きているかのように、この世界が連続していないかのように、突発的に1秒前とは違う言動をするから普通の人はついていけないのだ。
夢の中で山を散策していたら、よく薄暗い洞窟を見つけるんだ。
なかからうめき声のような、俺を呼ぶ声のような、判別つかない音が聞こえるんだよ。
「きっと化け物が潜んでいるに違いない」
俺はそう思って、好奇心からか洞窟の中へ入っていくんだ。で、その正体がわからないまま、夢から覚めてしまう。
お前はそんな夢を見たことがあるか
そう語るときのレオナルドの顔は、魂を引き抜かれた人形のように無表情だ。エリオの背中は凍り付き、かろうじて
……いいや
とだけ、吐息に混じらせた消えいりそうな声で答えた。
お前もきっと――
レオナルドがそう言いかけた時、背後でエリオを呼ぶ声がした。振り返ると、同年代の男女がこちらへ駆け寄ってきていた。
エリオ、こっちおいでよ!
エリオは救世主が現れたと言いたげな表情を浮かべ、レオナルドに背を向ける。レオナルドはただ只管、エリオの背中を悲しげな視線で追っていた。
エリオ、またあの変人と話していたの?
レオナルドって、蛙が友だちなんだって。うへぇ、おかしな奴だよな。
ラテン語や幾何学が分かるのはすげぇと思うけど、頭がイカれてるんだよ
エリオは待っていましたとばかりに首を横に振り、そんなこと言うなよと叱責する。
違う、レオは悪い奴じゃない。ただ、天才すぎて――俺ら凡人とは違う世界にいるんだよ
レオナルドはその言葉に愕然とした。しかし、聞いていない振りをし、キャンバスに顔を向けて筆を動かし続けた。
エリオ、こっちの世界にきてくれよ
お前にも、“あちらの世界”と繋がることができるはずだ
エリオ、なぜお前はいつも自分自身を偽っているんだ?
事あるごとに、レオナルドは1秒前は想像だにしなかったような言葉を発し続けた。その言葉はいつも、得体のしれない存在が預言としてレオナルドの口を借りて言い渡しているように。
次第にエリオは、レオナルドを避けるようになっていった。
二人の歪な友情が、とうとう崩壊する日がやってきてしまった。
エリオとレオナルドが14歳になった時、ふたりともアンドレア・デル・ヴェロッキオという芸術家に弟子入りしたのだ。
そこで、レオナルドはぐんぐんと才能を開花させていった。ドローイング、絵画、彫刻はお手の物。化学、設計分野、冶金学、石膏鋳型鋳造、金属加工、皮細工、機械工学、木工など、数えきれないほどの才能を見せつけ、まるで神の化身かのようにこなしていく。
時には、
人体の構造を知りたいんだ
と言い出し、こっそり墓地へ侵入して遺体を拝借して解剖しようと言い出すレオナルド。流石のエリオも、
おい、それは流石にやばいって。死者を冒とくしているようで……
と窘めるも、レオナルドは平然とした表情でエリオにスコップを投げる。
何を言ってるんだ。なら、生きている人間を解剖しろと?
いや、そういうことが言いたいわけではない……! 生死関係なく、相手は人間だぞ? そんなさも平気そうに
エリオは額の脂汗をさりげなく拭き、スコップを落とした。レオナルドは長い長い溜息を見舞いすると、
『平気そう』じゃない。『平気』なんだ。だって、そうだろう?
死者のお陰で、新たな医療知識が手に入る。その知識で、今後どれほどの人間を救えると思う?
俺がもし死んだら、どうぞお構いなく今後の医学発展のために使ってくれってこの身を差し出すさ
――お前には、善悪というものがないのか?
異 端 者 め
エリオは、いつもは左右非対称の顔を初めてと言わんばかりに左右対称にさせた。顔は、侮蔑九割哀れみ一割といった色に染まっていた。
この世に善悪なんてない。
覚えておけ、エリオ。
人と同じことをしているようでは、芸術や新たな発見なんて生まれやしない
レオナルドはどんどん人智を超えた偉業を成し遂げていく。一方エリオは、どんどん才能が廃れていった。その差は歴然で、周囲はもはやエリオなんて見えていなかった。それに比例して、エリオの筆は止まっていった。
皮肉なことに、まるでレオナルドが光でエリオが影であるかのように、光が強くなるほど、影が濃くなっていく。
天才とは、なんなんだ。
「善悪なんてない」?
俺は敬虔なキリスト教徒で、死者を冒とくするようなことは一切していない。
なのに、なぜこうも世界は冷たいんだ?
1475年.23歳になったエリオは自分の存在価値さえ危ぶまれ、立つ瀬がなくなった。苦渋の決断の末、とうとうヴェロッキオの工房から出ていくことになってしまったのだ。
エリオ
去りゆくエリオの背に声をかけるレオナルド。エリオは為す術もなく、死んだ目は地面を眺めたままだった。レオナルドは大きな額縁を抱えたまま、片手を差し出す。
残念だよ。君は俺と一緒に飛び続けることができると信じていた
『飛び続ける』?
今まで言いたくても言えなかった感情の残留物を、エリオはこことぞばかりに吐き出す。
笑わせるなよ、悪魔。
俺には、お前が人として落ちていっているようにしか見えない
エリオの謗(そし)る言葉に、レオナルドは慈愛に満ちたマリアのような表情を浮かべた。
レオナルドのやっていることと、すべてを受け入れる愛の塊のような表情が対照的すぎて、エリオは吐き気すらこみあげてくる。
エリオは、
お 前 な ん か
消 え て し ま え ば い い の に
と言いたくなった。実際左半分の顔が、口が、そう言いそうになった。けれども奥歯を噛みしめ、左手を左頬にあて、その動きを封じ込めた。
自分よりも、レオナルドのほうが世界から必要とされている。それに比べて、自分の存在はどれほどちっぽけなのか。それなら、俺のほうが消えてしまえば――。
きっと。俺が、お前と同じ時代に生まれてこなければ良かったんだ
湿った土壌に、エリオの言葉が染み込む。そして、レオナルドの抱えていた額縁の絵がするりと腕から滑り落ちた。
ガラスが割れ、まるで絵に亀裂が入ったかのように見えた。よく見ると、その絵はここ最近エリオが描いた自画像であった。唯一、師匠に水際立っていると褒められた作品であった。
レオナルドは、エリオが描いた自画像を睨む。その睨み方は、明らかに友人に向けるそれではなく、汚らしい奴隷を観るような、見下した目であった。
そうだな、エリオ……エリオの言いたいことは、よぅく分かった
レオナルドは、思いきり眉間に皺を寄せ、エリオの自画像を右足で踏みつけた。
亀裂の入ったガラスが、更に亀裂を増していく。それはまるで、ふたりの友情の崩壊を表しているようであった。
俺はきっと、『天才すぎて――凡人とは違う世界にいるんだよ』。
悪く思うなよ?
エリオ、これはお前が言った言葉を復誦したにすぎないんだから。
そうだな。お前は俺と同じ時代にいるべきではなかったんだ
寸鉄人を刺すとは言うが、その言葉はエリオの胸にぐさりと刺さる。
レオナルドの表情は、これでもかというほどに憐憫の情が含蓄している。それと同時に、底意の見えない畏怖さえ感じてしまう空気感をかもし出していた。
エリオは居ても立ってもいられなくなり、ボロボロになった自画像を拾い上げて闇夜に消えた。
その時、エリオは気づいていなかった。
その自画像を通して、自分自身に呪いがかかってしまったことを。