アルバムのページをめくる手を止める。

七月二十日、麻山雄介は部屋でアルバムをみていた。

……みていた、というより無意識に手が伸びていた。彼は、昔撮った華とのツーショット写真をぼんやり眺めていた。

はぁ……

無気力な溜息を吐いた後、恐る恐る、といったようにページをめくった。

そこに写るのは、痩せ細った体の、雄介の幼馴染だった。

傷ついた騙し役

幼馴染の名は、竹中雪子(たけなかゆきこ)という。

幼馴染というのとはもしかしたらすこし違うかもしれないが、友達という表現も恋人という表現もしっくりこない彼女は、幼馴染という言葉でくくるのがぴったりだった。

雪子は大人しくてまさに雪のような少女だった。

––––––––––しんしんと静かに降る雪のような少女。

雄介が少女と出会ったのは、ふたりがまだ小学二年生の頃の寒い冬の日のことだった。

北海道の冬にすっかり慣れた雄介は、厚着もせず、公園にひとりでいた。

友達と遊ぶ約束をしていて、雄介がひとり先に集合場所にいた。

約束は一時だが、公園の時計は十一時を指している。

––––––––両親の喧嘩がひどく、家にいたくなかった雄介は、約束までの二時間を、家で過ごすより公園で過ごすことを選んだ。

雄介の父親は、まじめに働く会社員––––––––表向きの顔ではあるが、かなり評判のいい顔立ちの整った男だ。

そして母親は、笑うとえくぼが浮かぶ、柔らかい性格––––––––これもまた表向きだ。

家にいる二人は、お互いを罵り合い、カッとなった父が暴力をふるう関係だ。

雄介には、なぜ喧嘩をするのかはわからなかったが、とにかく怖かった。

物心ついたころには家で過ごすことを嫌い、外での人間関係をせっせと築いた。

これはふたりが離婚した後、母から聞いたことだったが、愛のない見合い結婚だったそうだ。

ふたりとも名家の出身で、とにかく自分を貫く性格だった。

最初の二年ほどは割とうまくいっていたのだが、母親のほうの糸が切れ、そこからはどんどん崩れていったのだ。

雄介は、両親が大嫌いだった。

愛されたい、という願望などなく、ただただ家にいたくなかったのだ。

寒くないの?

ベンチに座っていた雄介の耳に届いた、か細い、だが鈴のように綺麗な声。

だれ?

声のしたほうを振り向くと、しっかりとマフラーを巻き厚着をしている少女がいた。

いつの間にか降り始めていた雪が雄介の頭に積もっていた。

わたし、ゆきこ

ぼくは、ゆうすけ。寒くなんかないよ

マフラーもてぶくろもしてないのに?

うん。ゆきこは、寒がりなの?

わかんない。でも、おかあさんがちゃんと着なさいって言うから

そうなんだ。カゼひいてるの?

ううん。そうじゃないけど……

そうじゃないけど?

雄介は、そう訊ねようとしてやめた。

そうじゃないけど、と言った後の雪子の暗い顔を見て、訊いてはいけない様に感じたから。

そっか。とにかくぼくは、寒くないよ。
ゆきこは、なにしにきたの?

おさんぽ。ゆきであそびたいけど、だめっていわれてるんだ

そうなんだ。つまんなくないの?

ううん、みてるだけでも楽しいから

そっか

こんな風に穏やかに出会った二人は、毎日のように公園で話すようになった。

それから時は経ち、小学五年生のある冬の一日、雄介はすべてを知った。

私、病気なんだ

え?

唐突過ぎる告白に、間抜けな返答をしてしまった。

病気なの、私……。だから、東京行かないといけないの

病気って、なんの……?

心臓が悪いんだ……。今まで黙ってて、ごめんね

まあ、私にも今まであんまり、わかってなかったんだけどね……

笑う雪子の顔をみて、小学生の雄介にも、話の重大さがよくわかった。

––––––––––だからなのか、こう言った。

僕、東京行くから!!

え……?

東京行って、また会いに行くからね

……っ!!

う、うん! ありがとう!!

雪子の心臓が悪いと知った雄介は、もしかしたら一生会えなくなるかもしれないと思った。

高校生になったら行けるはず。

雄介はそう思って、自分を縛り付ける約束になるとはまったく思わず、雪子と指切りを交わしたのだ。

すべてを知っていた、なんて嘘だよな、ほんと

回想をやめ、アルバムをバタンと閉じる。

あの約束を守るために、それからは勉強をたくさんした。

親は中学に上がる春休みに離婚し、北海道に残るという母側についた。

父が今、なにをしているのかは知らない。

知りたくもないし、離れられてせいせいしているというのが雄介の本音である。

魔が差した、のかもしれない。

勉強漬けの日々で気持ちを抑えるのにいっぱいだったのもあるが、単純に、落ちていた。

その日の昼休みも、いつものように図書室で参考書を読んでいた。

成績は学年トップを維持し続けていたが、所詮は田舎の中学だ。

トップを一生懸命狙う人など雄介ぐらいで、張り合いのない同級生たちばかり。

雄介は、だんだん糸が緩み始めているのを感じていた。

……ちょうどそんな時だったから、魔が差したと思うのかもしれない。

黒井 華

そんなに勉強して疲れないの?

唐突だった。頭上から声がかかり、雄介は顔を上げた。

誰だよ?

……雪子と初めて会ったときみたいな会話だな、と雄介はぼんやり考えた。

黒井 華

わたしは華。学年トップの麻山君でしょ?

学年トップ、ね。みんな本気で勉強してないから

黒井 華

ま、そうかもね。ね、なんでそんなに勉強するの?

いいだろ、別に

黒井 華

ま、いいけどね

そう言ってニコッと笑った。「はな」という名前がよく似合う子だと、思った。

その日から、気付けば目で追うようになっていた。

目が合うと、一度そらしてまた合わせる。

いつも視線を外すのは雄介のほうで、華はずっと視線を向け続ける。

でも、目を合わすたびに雪子の顔が浮かび、交わした約束が心を締め付けた。

––––––––––それでも、好きな気持ちを止めることなどできなかった。

雄介は華に告白して、ふたりは付き合い始めた。

でも、二年になり、そして三年になると、受験を強く意識するようになった。……あの約束のことも。

それまで以上に雪子の顔が浮かび、苦しくなった。

華に東京の高校を受けることを話すと、その返答は信じられないものだった。

黒井 華

そうなの? 
じゃあ、わたしも行こうかな

え?

どうしよう、と思った。

まさかついて来るなど言う訳ないと思っていただけに、どうすればいいのかわからなくなった。

黒井 華

あ、駄目、かな……

駄目だ、と言えばよかった。

そうすれば良かったのに。

向けられた笑顔が雪子のそれと重なり、首を縦に振ることしか出来なかった。

あの時躊躇わなければ––––––––。

そう後悔し続けている。

雪子は今入院していて、週末はいつも会いに行く。

––––––––––あの忘れもしない一日、雪子が華に向けた表情。雄介は、気づいていた。

高校生になり東京に来てから知った雪子の本性は、わがままなもの。

病気を盾に両親を困らせ、雄介にもわがままを言った。

––––––––––華ともしあのまま付き合っていたなら、と、考えてしまうこともある。

約束を交わしたことを後悔したわけではないが、日々ひどくなるわがままは、もう雄介もどうすることもできなかった。

それでも雄介は雪子の傍を離れることはできない。

約束に縛られたまま、雄介はもう、どこにも行くことが出来ないから。

傷ついた騙し役
Fin.

番外編 傷ついた騙し役

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