緋瀬 未来

え、えっと……あなたは……

お嬢さん、


と話しかけられて、振り返った未来は尋ねた。




先ほどまで雲が覆い隠していた月光がその声の主をスポットライトのように照らし出す。




ぼさぼさと伸びた髪。


一週間は剃っていないであろう無精ひげ。


そしてだるだるになった白衣。



常人ならざる記憶力を持つ未来にとって、一度でも出会った相手の顔と名前を一致させることなど造作ももないことである。



そしてこの場合も例外でなく――。


すぐさまこの一般的に言ってだらしない男性が誰であり、どこで会った人物であるかを思い出すのに、そう時間はかからなかった。

緋瀬 未来

た、確か、悠十くんの主治医の……蓼科新介さん……ですよね?

蓼科 新介

ああ、そうそう、よく覚えているじゃないかい?
もしかしてお嬢さんは記憶力がすごくいいんじゃないかい?
僕みたいに40を越えてくるとね、もう記憶力なんて衰退する一方だからね、本当に若いってのは素晴らしいことだと思わないかい?

緋瀬 未来

は、はぁ……。

未来はその疑問形が目立つしゃべり方に圧倒されて聞いていた。

蓼科 新介

ところでお嬢さんはこんな時間に、こんな場所で、しかも一人で何か用かい?
学校からの帰りにしては遅くないかい?

緋瀬 未来

え、えっと、きょ、今日は学校をお休みして、びょ、病院に行っていたんです……。

蓼科 新介

へぇ、そうなのかい?
どこか悪いのかい?
なんならうちで診てあげようかい?
悠十君の友達ならまけてあげるよ?

緋瀬 未来

あ、あ、え、えっとどこかが悪いというか、か、体に異常がないか検査に行っただけなんです。
だ、だからご心配には及ばないです……。

蓼科 新介

ああ、なるほどね。
確かお嬢さんもあの御縞学院の事件現場にいたんだっけかい?

緋瀬 未来

は、はい……。
と、ところで、蓼科先生はなんでこんな時間にこんなところに、い、いらっしゃるんですか?

蓼科 新介

ああ、僕かい?
いやなに、一仕事終わったからね、ちょっと家に帰ってひと眠りしようと思ったのさ、そんなに僕がここにいるのが不思議かい?

緋瀬 未来

い、いえ、そ、そんなことは……。

未来はそう言って俯いて黙り込んだ。



未来は元来、話すことが得意ではない。


それは幼少期、その記憶力を、それこそ記『憶』力というよりも記『録』力と言った方がいいのかもしれないが、とにかくその能力ゆえに他人との距離感が少し遠くなってしまったことに起因している。



蓼科のように饒舌で、ぐいぐいと質問してくるような人物は特に苦手なのである。


俯いたまま返答がない蓼科は不思議そうな顔で未来の顔を覗き込む。


すると未来はびくっとしておどおどした表情であちこちに視線を彷徨わせる。

蓼科 新介

もしかしてあれかい?
お嬢さんはあんまり人と話すのが好きじゃないのかい?

緋瀬 未来

い、い、いえ好きじゃないわけでは……。

好きじゃないわけではなく、得意ではないのだ。

蓼科 新介

そうかい?
でも、そのままだと悠十君と恋人になるのは難しいんじゃないかい?

緋瀬 未来

――――!!
ど、ど、ど、ど、ど、どうしていきなり悠十くんが出てくるんですか!?

蓼科 新介

え?
いや、お嬢さんが悠十君に好意を抱いてることくらいはみてれば誰でも分かるんじゃないかい?
お嬢さんはとても分かりやすい反応をするからね?

緋瀬 未来

そ、そ、そ、そ、そんなことは……。

蓼科 新介

別に心配することはないよ?
僕は人の色恋沙汰をべらべら関係ない人に話すようなタイプではないからね?
でもまぁ、自分の担当している患者があの通りあまりうまく感情を表に出せる方じゃないし、どちらかというと感情が希薄なように思えるからね?
お嬢さんみたいに仲良くしてくれる友達がいてくれるとこっちとしても安心できるってところもあるんじゃないかい?
余計なことかもしれないけどね?

緋瀬 未来

は、はい……

いきなり図星を突かれて慌てふためく一方で、未来はこの人物の意外なところを見た気がしていた。


どちらかというと他人に興味がなさそうに見えていたこの医者が、思いのほか悠十のことを大事に思っていたからだ。


もちろん医者として患者のケアをすることは職業上必要なことなのかもしれないが、それにしても患者の交友関係にまで気をつかうような人物だとは思っていなかった。


それは疑問形の多いその口調がやけに飄々としていることや、他人の目など気にしないと言ったようなその身なりのせいなのだが。

蓼科 新介

あ、そういえばさっき、一週間分の食糧を買いこもうと思ってスーパーに行ったんだけどね?
ちょうど福引がやってたんで引いてみたらこれが当たったんだよ?

そう言って蓼科がポケットの中から取り出したのは、乱雑に突っ込まれて斜めに折れてしまっている二枚の紙、否、ペアチケットであった。



未来がそれを受け取って見ると、それは最近できたというあけぼの遊園地の一日入場券であった。

緋瀬 未来

え、えっと、これいただいていいんですか?

蓼科 新介

まぁ僕みたいな独り身のおじさんには誘う相手もいやしないからね?
まぁこんなところでばったり会ったのも何かの縁だからね?
これに悠十君を誘ってみたら少しは進展するんじゃないかい?

緋瀬 未来

あ、あ、あ、ありがとうございます……。

顔を真っ赤にした未来は、何とかそう言った。

蓼科 新介

まぁおじさんがお嬢さんみたいな女の子に余計な事言う権利はあんまないんだけどね?
お嬢さんはもう少し自分に自信を持つといいんじゃないかい?
それは悠十君にも言いたいところだけどね?


……おっと、ちょっと立ち話が過ぎたね?
時間的にお嬢さんは少し急いで帰った方がいいんじゃないかい?


家で待ってるおばあちゃんが心配するんじゃないかい?

緋瀬 未来

は、はい、そうします。
ち、チケット、あ、ありがとうございました。

未来はちょこんとお辞儀をして小走り気味に歩き出す。


その後ろ姿をしばらく見送った蓼科は白衣を翻して闇夜に消えていった。

* * * * *

緋瀬 未来

ただいまー。

未来は和式の横引戸をガラガラと開けるなりそう言って靴を脱ぐ。

おかえり、未来。
ずいぶんと時間がかかったわね?

廊下の奥から藤色の和服を上品に着こなす未来の祖母が出迎える。

緋瀬 未来

うん、ごめんね、おばあちゃん。
ちょっと帰り道で知り合いに会っちゃって――。

そこで未来はあることに気づく。




なぜ蓼科は帰り際、両親が心配する、ではなく祖母が心配する、と言ったのだろうか?



確かに三世帯住宅なら祖母や祖父が一緒に暮らしていることもあるだろう。


しかし、それなら家族が心配する、だったり保護者が心配する、といった表現が適切であり、その上自然であろう。



しかし彼は、
蓼科新介というあの医者は、おばあちゃん、と限定して言ったのだ。





――まるで、緋瀬家の家族構成を把握しているかのように。

未来、お父さんとお母さんにあいさつしたらご飯食べますよ?

緋瀬 未来

あ、はーい。今すぐしてくるね。

未来は考え込むのを中断して、廊下の奥にある部屋に入ると、仏壇の前に正座する。



手早く線香に火をつけて立てると、鈴(りん)を鳴らして手を合わせる。

緋瀬 未来

ただいま、お父さん、お母さん。

これが未来の小学二年生以来の日課であった。




未来の父、緋瀬直樹、旧姓荒川直樹と未来の母、緋瀬美穂は今から8年前、未来が小学2年生の時、すなわち未来が第一二学区から第三学区に引っ越す直前に、夫婦ともに他界している。


未来に知らされた死因は美穂が助手席に座る車を運転していた直樹が突然の心臓発作に襲われ、ガードレールに激突した、ということであった。


二人でどこへ行こうとしていたのか、未来もそして祖母も知らない。

とにかく二人が死亡した、それだけのことしかその当時も、そして今も未来は知らない。



確かに未来は悲しいと思ったし、寂しいと思った。


帰ってきてほしいと思っているし、もう一度会いたいと思っている。


だが、そのことをきっかけにともに暮らすことになった祖母との生活はそれなりに楽しいものであったので、絶望をしたことはなかったし、日常生活に支障が生じるほど悩んだことはなかった。



――しかし。



手を合わせたまま、未来は先ほど中断した思考を再開する。



蓼科新介は未来のことを家で待っている家族は祖母だけに限定して言った。

それは裏を返せば。

一般的な慣用表現として、誰々が心配している、の誰々にあたる人物として相応しい両親がすでに他界していることを知っている、という結論が導かれるのではないだろうか。


もしそうだとして、なぜ蓼科新介というそれほど大きくない病院の医者がそんなことを知っているのか、ということは全く見当がつかなかった。



それは彼が疑問形の多い特徴的なしゃべり方をする悠十の主治医であるということ以上の情報がないということにも原因があるのだ。



そこで、その情報の少ない、もっと言えば顔を知っている程度の人物からもらったあのチケットのことを思い出す。


合わせていた手を離して仏壇のあるその部屋を出て、バックの中から二枚の紙片を取り出す。

緋瀬 未来

悠十くんと遊園地かぁ……ペアチケットってことはふ、ふたりきりで行っていいんだよね?
え、えっとこれは、で、デート……になるのかな?

さっきまでの不安はどこへやら、にへらと緩んだ口元のまま未来は遊園地で悠十と二人きりになる想像、あるいは妄想を膨らませる。



しかし、その時、これを悠十に渡して遊園地に誘わなくてはならないことに気付く。

緋瀬 未来

わ、わたしから悠十くんを誘わなきゃダメじゃん!
い、いやでもそんなの恥ずかしいし……それこそ、こ、断られたりなんかしたら恥かしくて死んじゃうよぉ……。

頭を抱えてぶんぶんと振る未来。



そこにあまりに時間がかかっているのを心配したのか祖母が廊下に顔を出す。

何をしているの?
ご飯、冷めちゃうわよ?

緋瀬 未来

は、はい!

随分顔が赤いわね?
大丈夫?

緋瀬 未来

だ、大丈夫だよ!?
い、今から行くから!

そう言って未来はバックにチケットを隠すように入れると明かりのついた食卓へと向かっていった。

絶対論理―Absolute Logos―(3)

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