その時の、彼には名前がなかった。
あるのは奴隷に付けられた番号
“Ⅸ≪ナイン≫”
と呼ばれていた。
物心がつく頃には奴隷だった。
自分が奴隷以外の何者かであった、その頃の記憶がなかった。
きっと自分は不必要な物だったのだろう。
彼は余計なことは考えなかった。
オレには何もなかった
名前もなければ、生きる場所も目的も、何もなかった。あの爺さんが現れるまではな……
その時の、彼には名前がなかった。
あるのは奴隷に付けられた番号
“Ⅸ≪ナイン≫”
と呼ばれていた。
物心がつく頃には奴隷だった。
自分が奴隷以外の何者かであった、その頃の記憶がなかった。
きっと自分は不必要な物だったのだろう。
彼は余計なことは考えなかった。
…………
ボサボサの髪。
土気色の肌。
奴隷を繋ぐ鉄の首輪は錆びていた。
継ぎはぎだらけの布の服。
手足は痩せ細っている。
目つきだけは
アサシンのような鋭い光を放っていた。
近付くものを威嚇する。
彼を買う者はいなかった。
凶暴な獣を奴隷にする者はいない。
彼はいつの頃からか、売れ残りとして放置されていた。
……
魔法使いが奴隷市場に訪れたのは気まぐれだった。
この奴隷市場で売れるのは従順で見目麗しい者か、従順で体力の在る者。
愛玩動物のように扱われ、
飽きたら捨てられるか。
道具のように扱われ、
過剰な労働を強いられるか。
そのどちらでもなかった者は、
何もせずに死を待つだけ。
魔法使いは檻の隅で倒れているⅨを見つけた。
売れ残りとして、ただそこで死を待つだけのⅨを魔法使いは買い取った。
そして、屋敷に連れ帰ったのだ。
Ⅸは自分を買ったのが魔法使いだと知ると自分は実験体になるのだと悟った。
死は覚悟していた。
だけど、
そこで出会ったのは、死とは無縁の出来事だった。
さぁ、まずは風呂に入ろう
風呂?
何だ、知らないのかい? 仕方ないなぁ
そう言って魔法使いは服を脱ぐ。
Ⅸも脱がされた。
湯気が立ち上がる湯舟の中に問答無用で放り込まれた。
さて着替えをしよう、そんな話になったときⅨは困惑した。
服の着方がわからない、そう言っても彼は殴らない叱咤しない。
笑いながら、教えてくれた。
着替えが済むと、大きなテーブルと椅子の並べられた部屋に案内された。
テーブルの上には料理が並べられていた。
どうやら、食堂らしい。
見たことのない料理に目を見開く。
あったかい……
この世界に、
こんな場所があるなんて……
Ⅸは、これは夢なのだと自分に言い聞かせた。
世界はとても冷たい。
目が覚めれば、夢が終わり。
また冷たい世界に戻るだけ。
綺麗な姿になったのも、美味しいものを食べさせてもらえたのも、実験体になる為。
これは、最後の晩餐とかいうものだろう。
そうなのだ、そうなのだと自分に言い聞かせる。
まだ、自分は実験体になるのでは……そんな思いは拭えなかった。
魔法使いから呼び出される。
いよいよ、実験体になるのだと息を飲み込む。
魔法使いはニコリと微笑みながらⅨを迎え入れる。
お前に生きる場所と、目的を与えてやろう
……え
濁った目に光が差し込んだ。
魔法使いの腕の中には赤子がいた。
この子は?
孫娘だよ。お前は今から、この子の兄になって欲しい
どういうことだ?
……この子の両親が、この子を愛していないからだ
無垢な瞳が誰かを探している。
小さな手が伸ばされ、それをⅨは握りしめた。
微かな力で握り返されて胸が熱くなるのを感じた。
どうして、この子の両親は愛することを放棄したのだろうか。
握り返された瞬間、感じたのは愛おしいという感情。
これが、生きる目的?
ああ、そうだよ。お前はこの子を守る為に生きるんだ。老いぼれは、いつまで生きられるか分からないからな。
この子を守りたいと思った。
だけど……
………他の連中じゃなくて、どうしてオレ……
他にも奴隷はいたはずだ。
いや、奴隷なんかに任せる必要はないだろう。
もっと、まともな人間がいるというのに。
じじぃの勘だ
え?
ビビビと来たのじゃよ
ハッハッハーと大笑いをする。
ふいに、手が握られた。
視線を移すと、心配そうな目がこちらを見つめて来る。
あ………
この子は幼いながらに、愛情を求めている。
それに応えてやれるのは、自分しかいないだろう。
わかったよ。オレが愛情を与えて育ててやるよ
やはり、お主で良かったよ
何が?
この子を護れる騎士となる者を、探していたのだよ。お主は頭が良いから、今後のことも心配あるまい
頭が良いっていうのは褒め過ぎ
奴隷はバカな方が、道具として扱いやすいからな。
お前のように頭が良い上に強い奴では、後で寝首をかかれる可能性が高い。だから誰も買わなかったのさ
そうなのか?
まぁ、そんなお前が残っていてくれた。感謝するよ。今から、お前はこの子の騎士だ
………オレが騎士……
そうだな、お主に名を与えなければな……お主はもう奴隷などではない、この子の兄……ナイトだ
それが……オレの名前
髪を切ってやるよ。新しいお前になる為にな。
奴隷Ⅸは、もうどこにも居ない。
たった今から、この子を護る兄となった。
オレは誓うよ。オレの全てはこの子だ、オレの命はこの子のものだ
ああ、期待しているよ。彼女の未来はお前に任せた。
ナイトは魔法使いの目をジッと見つめて誓いを捧げた。
オレの人生はお前と出会ったところから始まったんだ。それまでのオレは生きているかもわからない存在だった
………
目の前のお前を見た時に誓った。何があってもこの子を幸せにするって。その為になら、何でもする。オレの人生なんて、どうでもいい
……………それで、幸せなの?
自分の人生を犠牲にしてでも、他の誰かを幸せにするという行為が。
幸せだよ。ただの奴隷が、女の子を護る騎士になれたんだからさ。売れ残りだったから、数日後には処分されていたかもしれない身だ
………
兄さんの手が私の手を掴む。
ずっと、そうだった。
ソルが来る前もずっと、いつもこの手を握ってくれたのは……この人だった。怖いことがあっても安心で出来た暖かな温もり。
変わらないな
え?
オレが握ると、お前って力一杯に握り返すだろ
あー……
離すまいと無意識に力が込められてしまう。
この人に見捨てられたくないと思っていた。
少しだけ気恥ずかしさが込み上がって視線を反らす。
どうやら、兄さんは握った手を離してはくれないみたいで、手は握られたまま。
だから、過保護になりすぎるんだよな……オレって………
大きなため息が吐き出された。
そんなことないよ………いや、そんなことあるか
私の目から見ても、過保護が過ぎると思った。
そんなことが、何度かあった。