さざ波。鳥の羽ばたく音。
さざ波。鳥の羽ばたく音。
今日はなにを描こうかなぁ
静寂広がる海辺にひとり。
私はこの家で、ひとり絵を描く。
side.絵描き
時々やってくる嵐。
昨日はその嵐がやってきて、家は散々なことになっていた。
所々吹き飛んでしまった屋根の修繕をしながら日に焼かれる肌を気にしていると、足音が聞こえてくることに気づいた。
誰だろう……
足音の主を探す。
お姉さん、そんなところで一体何を?
その姿を探し当てられないうちに、今度は声が聞こえた。
は、話しかけられた!?
人が来ることが久しぶりなのだ。当然、会話をすることも久しぶりで。
貴方は……?
尋ねるのが精一杯だった。
ぼくは、旅人です、どうもこんにちは
屋根から降りる。やっとその姿を認め、先ほどの自己紹介を思い出す。
た、旅人さん……?
とてもそうは見えない。
目の前に立つ彼は、私よりずっと年下の男の子だった。
そうです、旅人です
そ、それはどうもこんにちは……
信じられないけれど、嘘だと指摘したところでなにになるわけでもない。
私はこの出会いを、楽しむことにした。
私は絵描きです
絵描きさんなんですか!?それは素敵です
眩しい笑顔。
こんな笑顔に出会ったのは、いつ振りだろう。
馳せるほど遠くはない、けれど馳せようとしなければ思い出せないほど、靄がかった思い出のことを考える。
絵描きさんが、屋根の上で一体なにを?
嵐が来て屋根が壊れてしまったので、その修繕をしていたんです
そうですか……。なにかぼくに出来ることは?
いえいえそんな。お客様はお部屋にご案内しましょう
……変な口調になってしまった。
けれど、旅人さんは楽しそうに、それじゃあ案内してください、と笑ってくれて、私は修繕道具を片付けてから、部屋に案内した。
絵がたくさん……
驚いた表情で周りをぐるぐる見回す彼は、ハッとひとつの絵に視線を止めた。
……どうかしましたか?
あまりにもその絵を凝視するから、私は恐る恐る尋ねた。
あっ、いえ、ぼくの故郷にとてもよく似ていて、びっくりしちゃって
故郷、という言葉は、旅人といえどまだきっと十歳とすこしといったところの彼が使うには違和感のあるものだったけれど。
その絵は、私の故郷を描いたものですよ
偶然か否か。
私が故郷を想って描いた絵に、彼も故郷を見た。
そのことが嬉しくて、私はそう告げた。
そうなんですか!?
……こんな風に、みえているんですね
え?
最後の方がよく聴き取れなくて、私は訊き返す。
あっ、いえ、なんでもないです
彼の眩しい笑顔に、否応にも過去をみる。
私は無意識のうちに、ここに来る前のことを考えていた。
……さん、
絵描きさんっ
はっ、はいっ!!
……寝てしまった。
過去を思い出して湿っぽくなれるほど、私はまだ大人ではなかったようだ。
そっとヨダレを垂らしていないか確認して、寝てしまったことを謝る。
とても気持ちよさそうだったので起こすのをしばらく躊躇ってしまいました。でもなんだか眉をひそめていたのが気になって……
本当にすみません……
いえいえ、謝らないでください
お客様を放って寝てしまうなんて……
そんな、ぼく、絵を見て楽しんでいましたから。この部屋、画廊みたいで素敵です
それより、なにか悪い夢でも……?
いえ、大丈夫ですよ。ありがとうございます
画廊。懐かしい言葉だなぁと思いつつ、お礼を言った。
旅人さんは……なぜ旅を?
しばらく続いた沈黙の後、私はずっと気になっていたことを口にした。
聴いてももいいことなのかわからなかったけれど、それでもこんな出会い、なかなかない。
結局好奇心が勝ってしまった。
なぜ、ですか。なぜという問いの答えは、ぼくはまだみつけていません
?
素直に首を傾げる。どういう意味だろう。
それをみつけるための旅、というような感じですので。すみません、答えになっていなくて
……いいえ、突然訊いてしまってすみません
……その答えに疑問は残る。
けれど、それはきっと彼にとって、すごく大切なものなのだ。
それでいいよね、と私は独り言ちた。
じゃあぼくも。絵描きさんは、なぜここで絵を?
きっと訊かれるのだろうなぁと思っていた。
ゆっくりと考え、答えを返す。
……私は、ここでこうしていることで、大切な人を待っているんですよ
彼は、そうですか、とひとこと言うと、氷が溶け汗をかいたコップを手に取り、紅茶を飲んだ。
お互いに、踏み込みはしない。
けれど、大切なものを持っている事実を共有出来た。
それはこの出会いに、確かな意味を与えたように思えた。
海の様子を見に行ってきますが、一緒に行きませんか?
窓から射す光が白から橙に変わり始めた頃、私はスケッチブックを捲っていた彼に尋ねてみた。
海の様子?
あ、これからの天気を、予測するんです
行きます、楽しそうです
嬉々として立ち上がった彼と、橙の中に踏み込む。
海のある街、ぼく、好きなんです
浜に寄せる波で遊びながら、彼が楽しそうに言う。
どんなに大人びた口調で話し、振舞っても、やはり本来は子どもなのだ。
彼がなにを背負い、なにを探して旅をしているのか。
その答えがいつみつかるのか、それともみつからないままなのか。
私にはなにひとつわからないけれど、ここで彼と出会ってから、考えていたことがあった。
旅人さん?
はい、なんでしょう
すぅっ、と息を吸う。
潮の香りが鼻孔をくすぐる。この匂いに慣れ親しんだはずの鼻に、いつもとは違う感覚を覚えた。
私を、連れて行ってくれませんか
えっ!?
波と遊ぶのをやめ、彼が声を上げた。
え、え?
私、旅をしてみたくなりました。あの家で大切な人を待つ時間も、私にとっては宝物です
けれど私、旅人さんが来て、淋しかったことに気づきました
私を、連れて行ってください
……ぼくと一緒で、いいんですか?
はい、私、旅人さんと一緒に行きたいです
許してね。
私、待ちくたびれちゃった。
けれどいつか。
いつかきっと、貴方のこともみつけてみせる。
その時は、私の旅行譚、話して聴かせるから。
絵描きさん、ぼく、今ちょっと、泣きそうです
私もすこしだけ泣きそうだったから驚いた。
ぼく、嬉しいみたいです
……良かったです
そう返すと、彼は笑った。
その笑顔に懐かしみと過去をみながら。
そして、未来をみながら。
これから、よろしくお願いしますっ
私は彼の笑顔に負けないように、笑顔を返した。
絵描き
Fin.