地下鉄を降りてから、彼女は目に見えてうろたえていた。これといって良い案が思い浮かばないようで、先を考えて起こした行動ではないようだった。
地下鉄を降りてから、彼女は目に見えてうろたえていた。これといって良い案が思い浮かばないようで、先を考えて起こした行動ではないようだった。
あの?
彼女はすぐに掴んでいた僕の袖から手を放した。
すみません
いや、いいんです。
あまり良い空気ではないですしね
僕は明るく言った。けれど、表情は硬いままで崩すことはしない。だから、僕の言葉は時折誰かを意図せずに傷つけてしまう。
いつしかイヤフォンをつけるようになった。学校の授業以外、僕の耳にはイヤフォンという友達ができた。一方的に話しかけてくる“彼”は僕にとって心地よい存在になって、片時も離れたことはなかった。
どういう意味でしょうか?
こういうふうに話しかけられることもなかった。生憎、相棒はカバンの中にしまうしかなくて、僕は盾を失ってしまっていた。何か答えるしかないこの状況の中、
どこかに行きましょうか
と逃げるような言葉しか返すことはできない。
1番線に電車が参ります。白線の内側に立ってお待ちください
電車が到着するときの音楽が流れる。
警笛が、
風を切る音が、
ブレーキの音が、
ドアの開く音が、
聞こえてきた。
いつも“彼”の話声の向こう側にしかなかった音が鮮明に僕の耳に届く。
その久しぶりの感覚に浸っていたら、彼女の接近に気づかなかった。
あの
空気が良くない。
それは単に空気という意味でもあるし、
人に対しても言える言葉だと思います。
僕は後者の意味であなたに言いました。
失礼だと思った。自分で言っていてもよく分かる。初対面の相手にあなたの纏っている空気が悪いと言ったのだ。ビンタで済めば良い方だろう。
あの!
ああ、初めての痛みはどんなものだろう。ただ、目をつぶって、時間が経っても頬には何も当たらない。恐る恐る目を開ける。
あの……
私もそう思います
はい?
他人の目が怖くて寄せ付けないような空気を出していたんだと気づきました。どれだけ自分で自分を見ても、所詮は外見を整えることしかできないんだと
彼女自身、自分が分からなかったのだろう。それは僕にも同じことが言える。彼女は雰囲気で他人を遠ざける。僕は物理的に拒絶をして他人を遠ざける。反発し合った僕らは出会うべくして会ったような気もする。
ありがとうございます
そんな感謝を言われる筋合いはなくて、僕が感謝を言うべき相手だ。
2番線に電車が参ります。白線の内側に立ってお待ちください
聞こえなかった音が耳に入ってくる。そんな音の中でも彼女の声はよく入ってくる。
乗りますか?
いえ、歩こうと思います。
1駅なので。
そうですか。
奇遇ですね。
私も1駅です。
いつからか僕はイヤフォンをしなくなった。
2番線に電車が参ります。白線の内側に立ってお待ちください
より鮮明にアナウンスが聞こえる。
電車が止まり、ドアが開く。
おはよう
そんな声が僕の耳に届く。拒絶から入る世界はもったいない。