地下鉄に乗ると私はいつも開かない左側のドアの前に立ち、窓に映る自分の顔とにらめっこしている。他人と目が合うと気まずいからだ。
それでも、私を見てくれている人はいると信じていた。
地下鉄に乗ると私はいつも開かない左側のドアの前に立ち、窓に映る自分の顔とにらめっこしている。他人と目が合うと気まずいからだ。
それでも、私を見てくれている人はいると信じていた。
一人じゃない。
そうやって、私は本当のことから逃げていたのかもしれない。甘えていたのかもしれない。そんなことを思いながら、地下鉄に乗っている。
エントリーシート書いた?
何社かは通ったよ
そんな会話が私の居心地を悪くさせる。彼らは私のことなんか見ず、そんな会話をお構いなしに続ける。
ああ、早く降りたい
私が降りる駅に着く手前、定期券をポケットから出す。それだけなのに、手元がくるって落ちる。落ち方が悪く、パチッとメンコの要領で音が鳴った。恥ずかしくて、さっさと拾ってしまおうと思ったのだが、私の体が動く前に拾ってくれた男性がいた。
無言で渡す彼のイヤフォンからは大きい音が出ている。周りを少し見渡すと嫌そうな顔をして立っている人が何人かいたから、音漏れの原因が彼にあることは間違いなかった。無理もない。これだけの音量なら、そうなるのが当たり前だろう。
そのことを注意してやろうかとも思ったが、私はそんな勇気を持ち合わせていない。
すみません
顔を伏せながら、私はそれだけを言った。
到着のアナウンスと同時にドアが開く。それが開き切る前に逃げるように私は地下鉄を降りた。だから、彼の顔なんて見ていない。
思えば、ほとんど毎日乗っていたのに、ここ最近になって彼が現れたような気がしていた。まさか幽霊とまで考えて馬鹿らしくなって考えるのを止めた。
最近、元気ないよ?
そんな母の言葉で私は夕食を食べる手が止まっていたことに気づいた。
そんなことないよ
努めて明るく私は振る舞った。母に迷惑をかけている場合ではない。女手一つで私を育ててくれた母より私は何倍も苦労していない。弱音を吐いている暇なんかないのだ。
ねえ、最終面接まで行ったよ。
真希はどう?
悪気のないメールの方がかえって傷つくこともあると知った。
嫌味ったらしく伝えてくれた方が、このやり場のない何とも言えない感情をぶつけられるのに。
こんなときにも彼の影がちらつく。
このむしゃくしゃを彼にぶつけよう。
何気なく、思った。
決心してからが長かった。結局、勇気を出すことができなかった。
むしろ、私は地下鉄に乗るたび、彼から見られている錯覚に陥っていた。自分の顔なんか見ずに彼の顔を窓越しに窺ったりしたときもあった。ただ、角度が悪かったため、見えなかったのだが。
音漏れは相変わらずしていて、彼は気づいていないのか毎日そうだった。
就職の面接に落ちて、少し自棄になっていたのだろう。受かっていたら、逆に気を大きくして言っていたのかもしれないが、そんなことを気にしていても始まらない。いつか聞いた会話に腹が立っていたのかもしれないし、いつかのメールだったのかもしれない。
音漏れ、迷惑です
言ったはいいものの彼に私の声は聞こえていない。背中をツンとしたら、体を震わせてからゆっくりとこちらを向いた。耳を指しながら私は言う。
迷惑
ぺこりと頭を下げてから、イヤフォンを外して鞄に入れた。すみませんも言わないのか。そう思ったが、彼はもうこちらを見ていない。
ちょっといい?
そんな言葉に私も彼も驚き、目を丸くしたまま固まってしまった。