そのときのことは、今でもよく覚えている。
そのときのことは、今でもよく覚えている。
俺は商人になるよ
よく晴れた夏の夕暮れの頃、旅支度を終えた彼はすがすがしい表情で宣言した。
なに、それ。冗談きついよ……?
わたしの言葉はきっと、彼を止められはしない。瞳に浮かんだ、希望に満ちた光を砕くことなど、出来なかった。
それでもわたしは、なにも言わずに見送ることなんて出来ず。
相談もしないで勝手に決めてすまない
いつか必ず、戻って来る、約束するよ
差し出された小指。--------交わせばきっと、彼は二度と戻ってこない。
わたしはその指切りには応えない。
応えたって、彼が帰って来るとは思えない。
針千本、彼が真っ赤に染まる。
破られるとわかっている約束なんて、それは、約束とは呼ばない。
だからわたしは、代わりに条件を出した。
わたしはベリーが好き、知ってるよね
あぁ、知ってる。それがどうかしたのか?
あなたが商人になったら、世界で一番美味しいベリージャムをみつけて、商人になった証を、わたしにわかるように、残して
彼を止めることは出来ない。戻って来るなんていう、すこしも信用ならない言葉を信じて指切りを交わすことも出来ない。
だからわたしは、ささやかな条件で、彼を縛った。
彼はあの日から、一度もこの町に戻ってきていない。
夏が終わり、秋が来て、長い冬を越し、迎えた春を過ごし--------気づけば六年経っていた。
夏が来るたび、沈んでいく夕日をみるたび、彼と交わした最後の会話を思い返す。
そんな空虚な日々にもようやく慣れ、わたしは町の布屋で裁縫をする縫子になっていた。
もうずいぶん慣れてきたようね
店主のマインさんが、店の戸締りを確認しながら笑う。
はい、マインさんのおかげですよ
他意のない、わたしの気持ち。屈折することなく伝わったようで、マインさんは嬉しそうに笑みを浮かべた。
嬉しいわ、でも、ルレル、あなたが努力しているから上達が早いのよ
マインさんは、人のいいところを探して、よく褒める人だ。本人が欠点だと思っているようなことでも、意外な視点からその人を肯定するのだ。
塞ぎ込んだわたしにとって、彼女は救世主だった。
そして同時に、その屈託のなさに嫉妬し、羨んでもいた。
あまりにも醜い感情だ。……彼が帰ってきたら、きっと、汚れてくすんでしまったわたしに幻滅することだろう。
もう五月も終わりですね
そうね、春も終わり。今年の夏も、暑くなりそうって、気象予報屋さんが言ってたわ
……夏、暑くなるんですね
声のトーンが下がってしまったことに、言ってから気づく。
マインさんは、そんなわたしの変化を悟り、立ち止まって呟いた。
……そういえば、もう、六年経つのね
小さな町だ。彼が出ていった噂は瞬く間に町中を駆け巡った。
彼は孤児院育ちで家族が居なかったから、その噂は酒の肴に、井戸端会議の主題になりはしたけれど、それだけだった。
噂は噂のまま。
それ以上でもそれ以下でもなく、ただ、なにかのついでのように、そういえば、ああ、と。
すぐに忘れられてしまうような、そんな、関心の中の無関心の、興味のついでのような。
彼の行方について、すこしでも心配するような人間は、ほとんどいなかった。
そんな空気の中、マインさんは彼の行方を案じてくれていた数少ないうちのひとりだ。
えぇ、ずいぶん、経ちました
長いようにも短いようにも感じられる、六年。待ち人がいる人にとって、六年という数字は、もしかすると小さいものかもしれない。
でもわたしは、彼のことなど気にも留めないようなこの町で、六年--------彼の帰りを待ち望んでいた。
比べられるものではないとわかっている。他人の価値観に期待しすぎてはいけない。それは主観で、わたしが今考えていることもまた、主観だ。交わるものではない。
でもすごく、心細い。
彼を縛ったはずのあの言葉は、まだ効力を持っているのだろうか。
ううん、ほんとうは。
ほんとうは、ベリーのジャムなんてどうでもいい。
彼がこの町に留まる口実として、わたしだけでは足りなかった。
だから口実なんて、なんでもよかった。
たとえそんな可能性がなかったとしても、
彼にとっては息をするのも辛いようなこの町に、居場所を開けることをしないこの町に、帰って来る口実として、すこしでも機能するのなら、
なんでもよかったのだ。
たとえ彼が帰ってこないとしても、ね。
町娘は夏になると、ようやく職認定書を貰い、見習いから昇格できる。
縫子としての腕も上がり、小さなハンカチなど、商品として売り出すものをすこしずつ任せてもらえるようになった。
お給料が増える。……ここより大きな町に行くお金が貯まる。
彼はあの約束を覚えているだろうか。
商人は見習い期間が長く、一人前になるには何年もかかるという。
六年経って、六年ぶん歳を取って、わたしは縫子として働くようになった。
では、彼は……?
この六年で、わたしはずいぶん歪んでしまった。
彼はあの頃のまま、綺麗なままだろうか?
夢を信じて疑わない、まっすぐな、輝く瞳のままだろうか?
六年で、なにも変わらなかっただろうか。
それとも、六年という年月が、離れてしまった距離が、
知らず知らずのうちに、
彼を別人に、すっかり別人に、変えてしまっただろうか。
ベリーのジャムを、探しに行こう
この町に居るだけでは、きっとみつからない。
夏も真っ盛り。ベリーの季節だ。
お金を貯めて、ジャムを探そう。
商人は、町までやって来て商品を卸し、仕入れ、そうして市場を転々としながら、旅をするという。
この六年間、わたしには市場へ行くお金すらなかった。
でも、この夏は、違う。
夏が終わるまでに、彼が証人になった証を、
わたしが出した条件を果たした証を、
彼がまだ生きているという証を、
彼が居たという、その、残り香を、
探しに行こう。
残暑の気配もすこしずつ消えようという頃、ようやく資金が貯まった。
町の守衛を務める兵士のレンダーさんが、報告のため一度城に戻るというので、一緒に馬車に乗せてもらい、わたしは市場を目指す。
しかし、ルレルがまだ諦めていなかったとはな……
諦められるわけ、ないでしょう?
すまない、野暮なことを言ったな
……でも、正直、働き詰めで貯めたお金をはたいて、もし、なにもみつけられなかったら、と思うと、すこし怖いです
ルレル……
レンダーさんは、町の人間に必要以上に関わったりしない。
でも、彼が町を出て商人になるのを手助けしたのは、彼女だ。
彼はレンダーさんに、町の居心地の悪さ、町を出て生計を立てるすべ、商人見習いになる道、などについて、あれこれ相談していたそうだ。
だから、わたしに対して、どうやら負い目のようなものを感じているらしいのだ。
そんな必要、まったくないというのに。
レンダーさんは……やっぱり、連絡を取ったりはしていないんですよね……?
あぁ、ない
協力してもらっていたというのに、恩知らずな人
……まったくだな
城への道は、長いけれど穏やかで自然に恵まれている。秋の気配を含んだ風がゆったりと吹き抜けて、レンダーさんの銀髪がゆらりと煌めく。
ぼんやりと、いろいろな感傷が、現れては消えていく。
いざ行動すると、今まで蓋をしていた感情まで存在感を主張し始めた。
レンダーさんが憎い?
とんでもない。憎いだなんて。
嘘つき。
彼に現実を突きつけ、止めてくれればと、
負い目を感じ気を遣うくらいならと、
ずっと、ずっと、思っているくせに。
行くと決めたのは彼なのだから、レンダーさんの所為にするのはお門違いよ。
綺麗ごとばかりね。
そんな風に物わかりのいいフリをしているから、彼は行ってしまったのよ?
うるさいっ!!!
おっ、おい、ルレル?どうした!?
あ……
ごめんなさい、なんでもないです
そう?それなら、いいんだけど……
明らかに訝しんでいるけれど、それ以上はなにも言わず、レンダーさんは静かに正面へ向き直る。
冷静にならなければ。
誰の所為でもない、そう言い聞かせる。
そう、これは、誰の所為でもないこと。
彼の選択が、わたしの選択が、レンダーさんの選択が交わり、結果へと結びついた、可能性のひとつが実現しただけのこと。
ただ、それだけのことだ。
よし、ルレル、ここで降りろ。市場に馬車は入らんからな
はい、ほんとうに助かりました、ありがとうございました
夕刻、またここで待ち合わせだ。気をつけろよ
はい、行ってきます
ここからは、わたしひとり。
深呼吸をして、市場の方へ歩き出す。
背後で、馬車が走り出す軽快な音が聞こえ、ますます背筋が伸びた。
しばらく歩くと、市場がみえてきた。人の声が飛び交い、活気づいた通り。
さまざまな店が並んでいる。食料品、装飾品、農具、武器の類が並んだ店もあり、それに合わせて統一感のない職種の人間がこれでもかと集まっている。
すごいな……
初めて目にするものばかりで、わたしはしばらく圧倒されながらアテもなく人波に揉まれていた。
ようやく人に慣れ、どうにか周囲をみながら歩けるようになると、さっそく目についた食料店に入った。
おねえさん、なにかお探しで?
あっ、えっと、ベリーのジャムを……
ベリー……えっと、あぁ、そうだそうだ、おい、ミリー!
商品棚をみていたわたしにいきなり話しかけてきたその人は、今度は大声で誰かの名前を呼んだ。
なんだよ、大声出すな
いらっしゃいませ、なにか?
このおねえさん、ベリージャムを探してるんだと。先月、入荷したよな?
なんでお前が店の仕入れ商品把握してんだよ……
少々お待ちください
……どうやら、最初に現れた男性は店員ではないようだ。店員らしき男性は、わたしとひとことも言葉を交わさないまま、すぐ奥へ戻ってしまう。
……市場にいる人って、こういうマイペースな人が多いのだろうか?
あの、あなたは……?
俺?俺は、レイ。東から来た商人
商人なんですか……!?
あ、失礼だな、そんな風にはみえないって思ったろ
えっ、違います違います!
わたしの……その、友人も、商人なんです
お、そうなの?名前は?
お客様、こちらがベリージャムになります。おい、レイは引っ込んでろ
ちぇっ、ケチ店主
今夏の新商品、『ラフレーズ』です
ラフレーズ……
あの、これを卸しにきた商人の名前はわかりますか!?
わかった。ベリージャムだな
あ、でも、なにか、そうだとわかる目印を決めておかないと……
そうだな……
ラフレーズ、でどうだ?
ラフレーズ?
隣国の言葉で、お前がいちばん好きなベリーの名前だ
そっか、ラフレーズ……
忘れないでね
もちろんだ。忘れない
確か……ソルフさんですね
あぁ、やっぱり。
彼は、わたしの出した条件を、しっかり果たしていた。
ラフレーズ、彼とわたしを繋ぐ唯一の言葉。
あのとき、あやふやな約束を交わさなくてほんとうによかった。
叶いもしない希望に、六年間も身を任せるような選択をしなくて、ほんとうによかった。
ただ、ベリーのジャムの存在だけを信じてきて、ほんとうによかった。
ソルフ……?あれ、確かそいつ……
死んだんじゃ、なかったっけ?
ほらね、針千本なんてことにならなくて、
ほんとうに、ほんとうに、
よかったね。
盗賊に襲われて、剣で心臓を貫かれて死んだって話だったな
商人が盗賊に襲われて死ぬなんて、よくある話なんだが、やっぱりちょっと怖いからな、俺はしばらくこの市場に留まることにしたってわけ
あぁ、だから、ソルフさんと連絡が取れなかったのか。っておい、俺はお前をここに置くなんて言ってないからな
はぁ?約束したろ、俺が働けばしばらく面倒みてやるって
わたしはそのジャムを買い、そのまま店を出た。
レイさんが言った、約束、という言葉が、脳内で延々と、響き続けていた。
まさか、死んじゃうなんて
確かに、戻って来るなんて、約束はしなかったけどさ
でも……
先に逝くなんて、ひとことも、言わなかったじゃない!!!
夏も更け、秋がやって来る。
彼のいない長い長い時間が、季節が、始まろうとしていた。
今度こそ、もう、なににも期待せず、約束なんてきっと、誰とも交わさずに。
彼の残り香だけを、ずっと、探し求めながら。
ベリーの残り香 Fin.