自走車を駐車スペースに入れようとした瞬間、家から飛び出してくる従妹の順に気付く。

　運転席に座っていた尤理が叫ぶ前に、賢い自走車は順の数歩手前で何事も無く止まった。

　命令する前に開いたドアから顔を出し、苛立ちを抑えた声を発する。

　昨日、尤理が幼い頃を過ごしていた母方の祖父母宅に電話を入れた際、『フライケーキが食べたい！』と『システム』の向こうで叫んでいた順の声を思い出し、尤理は順に分からないように肩を竦めた。

　尤理の予想は、しかし、半分だけ外れた。

　真っ青な顔を尤理に見せる順に、再び肩を竦める前に耳に引っかけているイヤカフ型の小型情報処理機器を確かめる。

　確かに、尤理の情報処理機器も、二百年以上前に起こった『大災害』以降ずっとこの世界を動かしている『システム』に繋がっていない。

　首を傾げながら耳から外した情報処理機器を自走車のダッシュボードに置くと、情報処理機器は正常な動作を示した。

　尤理の情報処理機器は、壊れていない。機器を動かすための電池は日差しがあれば充電できるから、『電池切れ』でもない。

　と、すると。

　掌に収まる情報処理機器を再び左耳に取り付けながら、尋ねる。

　戻ってきた順の言葉に、尤理は息を吐いた。

　『大災害』の後、この世界を管理する『システム』を人工知能と二人三脚で制御する。それが、『管理者』である尤理の職務。当然、『システム』に繋がる機器類を修理する技能は持っている。

　だが、今は、移動の合間の『休暇時間』。三～四ヶ月毎に新たな町村へと移動しなければならない『管理者』にとっては貴重な、のんびりできる期間。

　だが。

　顔色を無くした従妹を放って置くわけにはいかないだろう。

　もう一度、俯く順の華奢な身体を見つめてから、尤理は後部座席に手を伸ばした。

　この辺境の町で『システム』を制御する、誰も近付かない場所にある機器類を管理している『限界管理者』である祖父の謹厳な言葉が、脳裏を過ぎる。

　レポートをぎりぎりまで溜めておく順にも、確かに、責任の一端はある。早めに済ませて提出しておけば、後で間違いを見つけたときに再提出する余裕も出てくるし、今日のように突然『システム』にアクセスできなくなってしまっても慌てない。

　しかし順にお小言は言わず、尤理は後部座席に常備されている修理キットとともに自走車を下りた。

　美味しそうな匂いがする助手席の紙箱に手を伸ばした順に釘を刺してから、殆ど裸になっている畑を通り過ぎる。

　祖父母宅の赤い屋根を左手に見ながらしばらく歩くと、少しだけ荒れた細い山道が、尤理の目の前に現れた。

　葉を落とした木々が静かにざわめく山道を、平地と同じ歩幅で歩く。

　すぐに、古い木の板で囲われただけの、『システム』にアクセスするための小さな機器が、尤理の目の前に現れた。

　手を掛けただけでぼろぼろと端が崩れる木の板を外し、落ち葉に埋もれた小さな機器を確かめる。

　おそらくネズミがかじったのであろう、乱暴に切れたケーブルを繋ぎ直すと、左耳の情報処理機器が『システム』との接続を開始した。

　口の端を上げたまま、尤理は更に、山道を登った。

　息が切れる前に、木々が開ける。

　道が下りになるぎりぎりの所で、尤理は足を止めた。

　ここから先は、人は赴くことができない『禁域』。

　無言のまま、来た道を振り返る。

　木々の向こうに見えるのは、祖父母が暮らす赤い屋根と、裸になりつつある耕作地、そして小さな集落。

　祖父母は、祭りの支度をしていると順は言っていた。風の中に、尤理がこの町で暮らしていたときに一生懸命耳で聞いて横笛の指使いを覚えた祭り囃子が混じっているような気がして、尤理は思わず目を細めた。

　おそらく祖父母は、集落にある神社と集落全体を飾り付ける注連縄と、祭りのときにだけ食べる、様々な色を付けた米粒を上に飾って注意深く蒸して作る、餡の入った餅を作っているのだろう。

　従妹の順のように祖父母宅に居候していたときのことを思い出しながら、再び、『禁域』の方へと向き直る。

　祖父母は今でも、祭のときに神に捧げるあの餅のための穀物を、栽培しているのだろうか？　『大災害』が起こる前には、今は暗い海の底に沈んでいる島々で栽培されていたという、紫色にも見えた小さな穀物を。

　妹が生まれるからと言う理由で、あの赤い屋根の下に、一夏だけではなくずっと居なければならないと尤理が知ったその年の秋に祖父が教えてくれた『大災害』前の光景と慣習を、尤理は『システム』の助け無しにまざまざと思い出していた。

　あのときも、確か、『システム』にアクセスするための外部機器が故障して、不思議な色だと尤理が思ったあの穀物は祖母が収穫も脱穀も全てやってしまったんだったっけ。

　思い出に佇む尤理の目の前で、一瞬だけ、『禁域』の向こうにある暗い海が後退する。

　陽炎のように現れた、銀色の水面に浮かぶ緑の島々に、尤理はほうと息を吐いた。

　元に戻った、海の色の暗さを確かめてから、背伸びをして踵を返す。

　急いで帰らなければ、順にフライケーキを全部頬張られてしまう。祭は明日だから、神に捧げた後で食べるあの餅は明日食べることができるだろう。丁寧に漉された餡と、米の餅とは違う柔らかさを持つ餅の甘さを思い出しながら、尤理は早足で山道を下った。