あ……。

……。


 その犬を初めて目にしたのは、実技科目を受けるために隣町にある学舎に行った帰り道でのこと。

 まだ自走車が運転できる年ではなく、『大災害』前には学生の乗り物だったという『自転車』は危険な乗り物として所持すら禁止されている。だから、尤理が持つ移動手段は、徒歩のみ。この世界を人工知能とともに管理する『管理者』になるためには体力も必要だし、歩くのは、景色が楽しめるから好き。だから尤理は、夕方の山道を苦にもせず、まだ遠くに見える赤い屋根の、居候をしている祖父母の家に向かって歩いていた。

 その尤理の視界に、灰色の影が侵入する。

……。

何っ!


 突然の影に、尤理の心臓は心臓が飛び上がった。

 だが、影の正体は、犬。

びっくりしたぁ。


 そのことに気付くと同時に、尤理は声を上げて笑ってしまった。

 それでも。

……。

でっかい犬だなぁ。
こんな大きさの犬、見たことない。


 この灰色の『犬』は、尤理と同じくらいの体格を持っている。

 今は道の隅でおとなしく座っているように見えるが、もし、襲われたら。背中の震えのままに、尤理はなるべく、その灰色の影から離れた道を取った。

 しかしながら。

……?

……。


 尤理が通り過ぎても、その灰色の影は微動だにせず、尤理に視線を注ぎ続けている。

何か、言いたいことでもあるの?

……。


 立ち止まって振り返り、尤理は思わず首を傾げた。

もしかして、お腹が空いている?


 独りよがりな思いのままに、背負っていた鞄からお弁当箱を取り出す。

……。

 残してしまった、貧血予防に食べるようにと祖母が叱る、鶏のレバーを煮たものを灰色の影に向かって投げると、影は一瞬にして、その茶色の固まりを飲み込んだ。

 それから時々、散歩や学舎への往復のついでに、尤理は食料を持ってあの灰色の影に会いに行った。

はい、ごはん。

……。

 いつも微動だにせず、尤理を待ちかまえているように見える影は、パンやおにぎりは食べない。食べるのは、ソーセージやカツサンドの中身といった肉のみ。

好き嫌いがあるなんて、変な犬。

この犬、何なの?

……。


 耳に引っかけてあるイヤカフ型の情報処理機器から『システム』にアクセスして検索を掛けても、返ってくるのは疑問符だけ。

足も太いし、この犬は、一体?


 犬(仮)に餌を持って会いに行く度、尤理の疑問はどんどんと大きくなっていった。

 そんなある日。

 歩いて十分はかかる隣家に、祖父母が作った野菜を届けに行く。

この、匂い……。

……。

香澄?


 隣家にたどり着いた途端に濃くなった鉄の匂いと、裏の鶏小屋の前で腫れた瞳を尤理に向けた幼なじみの香澄の姿に、尤理の脳裏は一つの結論を引き出した。

まさか……!


 あの、灰色の犬(仮)は、まさか。

 まだ幼い頃、『管理者』である母が連れて行ってくれた古い博物館に居た、世界の秩序を大きく変えた『大災害』のさらに百年以上前に絶滅したという動物の剥製と灰色の影とを重ね合わせながら、尤理はいつもの山道へと走った。

……。

 いつもの通り尤理を待ちかまえていた犬(仮)の口元に赤い印を認めるや否や、祖父母の家から持ち出したソーセージを林の向こう、人は赴くことができない境界の向こうへと放り投げる。

……。

 その小さな影を追うように林の中へと姿を消した影に、尤理はほっと息を吐いた。

『禁域』、なら。

 『禁域』へ入ってしまえば、あの犬、ではなく、狼、は、捕まることはないだろう。

もう、ちゃんと逃げられた、よ、ね。

 影が『禁域』の中に入ったことを確かめるために、尤理は境界線ぎりぎりに足を掛けた。

 次の瞬間。

わっ!


 自分の叫び声が、耳を叩く。

 足を滑らせてしまった尤理の身体は、一瞬にして、暗闇の中に落ちた。

いったぁ……


 近くにあるはずの自分の腕すらも、見えない。

 それでも何とか、オンライン授業で覚えたサバイバル知識を総動員し、尤理は自分の身体を確かめた。

大丈夫。


 落ちる途中の枝木で付いた擦り傷は痛いが、骨は、折れていない。歩くことは、できる。

 見えない地面を足で探り、そこにあるのがしっかりとした地面であることを確認すると、尤理は殊更ゆっくりと、自分の身体を立ち上げた。

ここは、一体?


 暗闇をぐるりと見回しながら、奇跡的に左耳に引っかかったままだったイヤカフ型の情報処理機器に尋ねる。

……。


 だが、返ってきたのは、無音。

 何かにぶつかって、壊れてしまったのか? 怯えと同時にもう一つの可能性に思い至り、尤理の全身は強張った。

ここは、まさか、……『禁域』!


 夜になっても尤理が家に戻らなければ、祖父母が多分、探してくれる、はず。もう一度、暗闇に目を凝らす。だが。

……この『禁域』まで、探しにきてくれるかしら?


 不安と恐れを、首を横に振ることでごまかすと、尤理は暗闇に手を伸ばした。

 見えない場所で闇雲に動くことによる危険は、十分に承知している。しかしここは『禁域』。できるだけ早く、脱出した方が良い。

 と。

……誰か、居る?


 不意に響いた、細い声に、はっと意識を集中する。

 手探りで声がした方に進むとすぐに、少しだけ明るくなった場所で小さな影が泣いているのが見えた。

……。

大丈夫?


 散らばった画材道具と、泥で汚れてしまった厚手の子供服を、確かめる。

この子、怪我、してる。


 触ってみた、地面に放り出された子供の足の熱さに、尤理は唇を噛んだ。

 おそらく尤理のように足下の悪い場所から滑り落ち、尤理より運悪く足を捻ってしまったのだろう。

とにかく、早くここから脱出して、大人に診せなければ。


 焦りのままに、尤理は、肩を震わせて小さく泣き続ける子供を背に負った。

 その時。

……。

 不意に、尤理の視界端に灰色が舞う。

……。

……狼!


 尤理が叫び声を上げる前に、灰色の影はその身を翻し、尤理の斜め前にある空間の緩やかな凹みをその鼻で指し示した。

……。

これは。


 指し示された場所から続く、緩やかな上り坂に、息を吐く。

 この道なら、尤理の力でも、少年を背負ったまま、登れる。

……。

 灰色の影に導かれるまま、尤理は、少年を背に、そして少年のスケッチブックを左手に持ったまま、その、意外に歩きやすい坂道を早足で上った。

 しばらく進むと、急に、辺りが夕方の光に包まれる。

あ……。

 『禁域』を抜け、人の領域に戻ることができたのだ。胸の温かさに、尤理はほっと息を吐いた。

あの。


 尤理の背中で小さな声を上げた子供を、地面に下ろす。

ありがとうございます。


 尤理に向かって頭を下げた子供は、次の瞬間、斜めになった光に紛れるように、消えた。もちろん、灰色の『狼』も。

え……?

 戸惑うままに、左手を見る。

 あの暗闇で拾ったスケッチブックは確かに、尤理の手の中にあった。

これ……!


 そのスケッチブックに書かれた名前に、はっとしてスケッチブックを二度見する。

 スケッチブックに書かれていたのは、尤理の母方の大叔父、絵が好きだったが若くして亡くなったという、祖母の兄の名前だった。

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