ノワール・マオは笑う。
 不機嫌なあたしを見つめて、それはそれは極上の笑顔を浮かべるのだ。

サイッテー

最大の褒め言葉だ

サイアク

最高だな。この上ないほどに

さー……さ、さ、さ……サイリウム?

誰の頭がサイリウムだ

言ってない言ってない

まったく、お前は本当に顔だけだな。もっと勉強したまえ

顔だけあれば十分……って、そうじゃなくて!


 あたしは腹の底から声を張った。

どけ――――!!

 大声に驚いた鳥達が一斉に空へと羽ばたいた。慌てて飛んでいったからなのか、空から白い羽毛がふわふわと落ちてくる。そこだけに焦点を絞れば、物語のワンシーンとしては非常に意味のある光景になる。

 が、

それはこちらのセリフだ。お前が僕の下から早くどきなさい

 早く、とノワール・マオはあたしを押し倒しておきながら呆れ顔でせっつく。

 この男にはあたしがどう見えているのか、甚だ疑問だ。
 少なくても、女としては見られていないんだろう。いや、べつにいいんだけど。

 ノワール・マオは、おそらくあたしを出口に連れて行ってくれた。けど、辿り着いたのは奈落の底にあった枯葉のベッドの上だった。
 あろうことかこいつは、あたしを下敷きにしやがったのだ。おかげでこっちは落ちてくる途中、木の枝やら何やらにぶつかって傷だらけ。枯葉のベッドも落下の衝撃を吸収してはくれたけど寝心地が全然よくない。何かが背中に刺さってちくちくとする。

幼気な乙女をみょうちくりんな場所に誘拐するわ、助けると称して抱きつくわ、クッション代わりにするわ……挙句の果てに、これ? あんた、ホントにもうセクハラで訴えるからね? 示談なんかじゃ済まさないからね?


 いまこの瞬間、この現場こそが動かぬ証拠だ。言い逃れはできない、させない。あたしは十分な精神的、肉体的苦痛を味わった。涙を浮かべて訴えれば、こんな奴、すぐに牢屋にぶち込めるだろう。
 ノワール・マオは考える。顎に指をかけ、神妙な顔つきであたしをじっと見つめている。

ふむ……何一つやましいことはしていないし、する気が起こるほどお前に魅力は感じていないが……そこまで言われては、仕方ないな。どうせならご要望にお応えして、何かとんでもないイタズラでもしてやろう

したら殺す

やれやれ、冗談の通じない娘だな。そのくせ、相手が本気になって迫ってきたらビビりまくって思わず手や足が出るくせに

いいから早くどけ!!

 怒りから湧いてくる力で思い切り彼を蹴飛ばした。宙へ放り出された彼の体はホームランボールみたいに向こうの木へ飛んでいく。そのまま幹にぶち当たって骨折か、内臓をぶちまけるかしてくれても構わなかったのに、彼はすとんと幹の上に着地した。重力をまるきり無視して木に対して垂直に立っている。 

 余裕綽々のノワール・マオ。
 木の枝のように張り出しながらも、同じく重力を無視して落ちない帽子を被り直して笑う。

図星だな

あんたっ本当にサイアクよ!!

 体を起こしてぐるりと周囲を確認する。
 視界に映り込むのは、巨大な木の群れ。頭上には青空を確認できるものの先程の砂漠地帯と違って遥か遠くに感じられる。まるで、小人にでもなったような気分だ。

 砂漠の次は森の中。
 これのどこが出口なのかしら。

あたしは出口に連れてけってお願いしたのよ! あんなことまでさせておいて約束を破るなんて、やっぱりあんたを信用するんじゃなかった!!

待て待て。何を喚いているんだい? 出口なら、いま越えてきたじゃないか

じゃあここは何処よ!?

さしづめ、第二の関門といったところだろう。というか、お前はまず僕に礼を言うべきじゃないのかい?

なんでよ

出口につれていってやったじゃないか

だから、これのどこが出口なのよ!

砂漠から脱出したかったんだろう?


 ノワール・マオは狐みたいな顔をして笑った。それを見てあたしも彼の言わんとしていることを理解した。

……そーゆーこと

 腹の底で怒りがふつふつと煮立っている。
 頓智をやっているんじゃないんだから、普通はわかると思うんだけど、ノワール・マオの性格が悪いことを失念していた。きっと、暑さやら疲労やらで頭がやられていたのだ。そうじゃなきゃ、こんな奴を一瞬でも信用するわけがない。

 こいつに出会ってから、あたしはずっと踊らされっぱなしだ。

……あんた、ほんっとサイテーね

 怒りが溜息に変わって消えていく。なんかもう呆れちゃって怒るのもめんどくさい。

 あたしはもう一度、枯れ葉のベッドに仰向けになった。木の枝に切り取られた青空は小さく、目に入れても痛くない。木々の緑は目に優しく、耳を澄ませば聞こえる鳥の囀りと森林浴効果で逆立っていた心も自然と穏やかになるようだ。思い描いた出口とは全然違ったが、これはこれで休息を得るにはよかったのかもしれないとさえ思えてくる。

なんかもう、どうでもよくなってきた……

 疲労が毒のように全身に回っている。正常な判断もできないくらいなのだ、回復するまで少し休みたい。
 欲を言うなら、このまま眠ってしまいたい。
 そうして、目が覚めたら何もかも――――ノワール・マオとの出会いも全部夢だったらと、そんな都合の良い夢を見る。

風邪を引いてしまいますよ、私の可愛いアリス


 すぐ近くから声が降ってきた。奴がそこまで近づいてきているんだろう。
 これがあたしの求める王子様だったら、どんなによかっただろう。
 念じながらゆっくりと瞼を持ち上げていく。でも結局、そこにいるのは王子様なんかじゃなくて。

……あんたがあたしの王子様だったら、どんなにか気が楽なのにねえ

ご冗談を


 ノワール・マオは笑う。
 道化師みたいな笑顔を被って。

……ねえわ


 例え、こいつが王子様だったとしたら、こっちから願い下げよ。それこそ悪夢でしかない。

じゃあ、こいつってあたしの何なのかしら?

いつまで寝転がっているつもりだい?


 ノワール・マオがごく自然に手を伸ばしてくる。

それとも、そういうことをお望みなら僕が相手をしてやってもいいが、ここから先は別途料金が発生しますのでご了承ください

ざけんな


 あたしは彼を睨みつけて、ごくごく自然にその手に手を重ねて体を起こした。

ノワール・マオは笑う

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