ねぇ、お兄ちゃん。中に入っても良い?










 聖丘君の病室をノックしたのはこの子のようだ。顔が少し女の子っぽい。



 人形をしっかり抱き締めながらじぃっと俺を見上げていた。






聖丘秀司

どうした? 穂村?

穂村 繁

えっと、男の子が何か…







 聖丘君は目をぱちくりさせる。





聖丘秀司

男の子?

穂村 繁

はい。何か、中に入りたいとか言ってますけど……どうしますか?













 聖丘君は、しばらくこちらを見たまま不思議そうに目を瞬かせていたが、それからくいっと小首を傾げて。








聖丘秀司

入りたいなら入れてやれば良いんじゃないか?

穂村 繁

だって、君…───









 俺はドアの前に居る子供へ顔を向けた。






ありがとう! お兄ちゃん!









 後ろから、声がした。






聖丘秀司

ん? お前いつの間に居たんだ?










 聖丘君が不思議そうに問い掛ける。



 後方を振り向けば、男の子が聖丘君のベッドにもたれかかっていた。






穂村 繁

え? あの子…いつの間に?







 俺は、不思議に思いながらも、再び顔を真正面に戻して眼前の景色を視界に納めた。



 ドアを一枚挟んだ向こうに、男の子は居ない。



 それは当たり前だ。もう室内に珍客者として入り込んでいる。





 ドアを、静かに締めれば、再び病室と廊下は隔たりを得た。









ねぇ、お兄ちゃん。
ボクね、探し物してるんだ

聖丘秀司

何探してんだ?










 男の子の、楽しそうな声が後から聞こえてきた。


 首だけ振り向けば、聖丘君が少年を優しげな表情で見下ろしていた。





 これ、思ったら気持ち悪いと思われるんだろうけど、本当に聖丘君って優しいし格好良いな。



 俺は踵を返す。体をくるりと回すと、腕が取っ手に引っ掛かった。







お人形の手と足が両方共無いんだ。何処にあるか分からなくて探してるの

聖丘秀司

それは大変だな…───









 腕に走る鈍い痛みに、俺はもう一度ドアと向き直る。




 そして、気付く。








お兄ちゃん、探してくれる?













 ドアと俺の隙間。








 子供が『自分にぶつからずに』擦り抜けられる幅など『無かった』。









 






 途端に鼓動が跳ね上がった。



 氷塊が背中を舐めて戦慄を呼ぶ。



 そして、俺の肌に触れていた空気が豹変する。











 清潔感溢れるはずの病室が、肉腐る臭気に包まれる。


 ガタガタ身体が震える。


 カチカチ奥で歯が鳴る。


 ドクドク心音が聞こえて身体を打ち付ける。


 俺はゆっくり、ゆっくりと、聖丘君が休んでいるベッドへと振り向いた。










































視界に映る。



聖丘君と

右下が綺麗さっぱり無い、
『何か』。






穂村 繁

聖丘君!

その『約束』はしちゃ駄目だ!










 がし、っと、冷たい何かが俺の両足を掴んだ。




 眼下を見下ろして、俺の全身を寒気が舐め回す。




 ぬぅ、と白い手が、足をガッチリ掴んでいる。



 それは病室の床から生えていた。

 腕の付け根ほどまでの長さを持った腕が……――腕だったはずのものが、まるで粘土のような柔らかさを持って足からふくらはぎ、太股を螺旋を描いて這い上がる。だけれどその感触は粘土のようにどこかしっかりしていない。

 ぶよん、と、おぞましいほど柔らかい。
 柔らかくてぞっとするほど冷たい。






 冷や汗が吹き出て脂汗が滲む。



 見なくても分かる。



 存在感だけで、分かる……――あれは、意志ある『人だったモノ』。




 ただの『肉』。

 白い、肉の塊だ。腐敗した、人間の体。









 重力を無視したように右足が綺麗さっぱり無いというのに、それでも不自然と分かるほど自然に立っていた。

 まるで、見えない右足がくっついていて、それを支えに立っているかのようだった。でもその上半身だってまともじゃない。かろうじて人間の姿を模している『何か』だ。まるで蝋人形が溶けたかのように、原型が人の形をしていない。




 病室の風景は変わっていない。だけれど、紫と黒の絵の具をぐちゃぐちゃに塗りたくったような窓の外。背景に、聖丘君は辺りを見回すように首をキョロキョロと動かした。








聖丘秀司

穂村……? アイツ、どこ行った?










 オレが見えてない…?!








穂村 繁

聖丘君! ここだ!

俺はここに……─────がっ!













 身体に巻き付いた『腕』が、それ以上喋る事を許さんばかりに喉を締める。



 呼吸器官を胸を押さえ付けられて空気が入って来ない。





 首に巻き付いてきた肉に掴み掛かる。



 有らん限りに力を込め、爪をたてて、下へ引っ張る。首の後ろ、腕に込められた力の分だけ負荷がかかる。それでも俺は、あえて首を後ろに引いた。そうすることで、首を絞めている『肉』に、僅かでも隙間が作れる。









聖丘秀司

穂村……?

ねぇ、お兄ちゃんってば!
僕のお話聞いてた?

聖丘秀司

あぁ、悪い……──で、何だ?

もう、お兄ちゃんったら、覚えててよぉ












 肉の塊に、語り掛ける聖丘君。



 それは滑稽なほど優しい顔をしていた。



 聖丘君に語り掛ける右下の無い肉塊は、どこかで録音してきたんじゃないかと思うほど可愛らしい少年の声をアホみたいに発して、ぶよぶよになった肉を振り乱すように『無邪気』に跳ねていた。





 駄目だ!


 それと『約束』しちゃ駄目だ!







 ぶちぶち、と、肉が繊維を引いて千切れ始める。
 指先の肉から少し剥がれた爪の隙間から、血が零れ落ちる。












穂村 繁

ひ、じり…おかっ……!









 苦痛に歪んだ甲高い絶叫が耳朶を打ち付ける。



 少し楽になった俺は更に力を込めて、下へ下へ引く。首が外れて落ちそうなほど痛いにも関わらず、俺はさらに首を後方へ引っ張る。











だから、僕のお人形の両手両足を探して欲しいの!

聖丘秀司

あぁ、そうだったな











 ぶちぶち。
 ぶちぶち。
 ぶちぶち。







 肉の千切れ目から腐臭が漂う。



 吐き気を覚えながらも込める力に衰えはなく、寧ろ強まっていく。




 ぶちぶちぶちぶち。








穂村 繁

聖丘っ…! 駄目っ…!









 それでもその想いは、『優しい彼』には届かない。






聖丘秀司

仕方ねぇな。オレも探すの手伝ってやるよ









 ──空気が、冷えた。







穂村 繁

あっ……










 目が失意に目が飛び出さんばかりに見開く。


 藻掻いていた腕から、首から、力が完全に抜け切った。






 それを好機と見て、身体へ肉が巻き付いていく。


 もう一度、体を締め直す。


 体を、覆い尽くす。


 俺の視界が肉で覆われる。


































じゃぁ、お兄ちゃん……───約束だよぉ……

































 声が、スロー再生しているかのように鈍く放たれた。
 後ろ姿しか見えなくても分かる。
 それは楽しそうに、嬉しそうに、『ニタリ』と笑っている。









聖丘秀司

あぁ、約束な












 聖丘君は、人懐っこい笑顔で『男の子』に小指を差し出して誓う。




 とろけて、原型も無い指が聖丘君の指に喰らいつくかのように纏わりつく。











それじゃあね……十日後、この時間に……また来るから

聖丘秀司

十日後? あぁ、そうか。退院か? 良かったな















 聖丘君は約束したまま時計を見やる。




 病室に備えられた時計が五時をピッタリ差したまま。



 最初にアレと遭った時から、一秒も動いていなかった。












聖丘秀司

この時計だと、五時か……

うん……















 『にこぉ』っと、笑う。



 見えていない、表情筋など蕩けて本来の使い方など、どうやっても同じようには出来ないあの肉の塊が、確かに『嬉しさ』と『無邪気』を纏って笑う。









でも、もし見つからなかったら……───




















 がくっと、肉が横へ傾いた。







 今まで、重たい頭を無理にでも乗せていたから、ついに耐えきれずに頭がガクンと落っこちたかのような、人形の頭が外れて重力に引っ張られたかのような不自然な落下。





 でも、完全には落ちない。


 文字通り首の皮が色褪せたゴムのように繋がって、首から二つにならずに済んでいるだけだった。





 
 聖丘君は目を瞬かせて、顔面などない肉塊の顔を覗き込む。











聖丘秀司

どうした? 具合でも悪くな……───






















 突然、『ぐりん』っと顔が持ち上がる。



 そして次の瞬間、目玉を剥き出して紅い口が『けら』っと嗤った。






『君の』貰うからね








 裂けた口から嘲笑が溢れ出る。

































 病室内に響いて、反射して、狂ったように笑い声が響く。





 男の子だけじゃない。




 女の子の、男性の、女性の、翁の声が反響した。







 重なり合う嗤い声は鳴りやむことを知らずに、不愉快な不協和音を奏でて、こだまする。













 聖丘君の表情が、ついに歪んだ。





 彼の見ている世界も、変わった。




 驚愕に目を剥いて彼は耳を塞いだ。













   ∞∞∞∞∞


















聖丘秀司

お、お前っ!
何だっ!?













 問い掛けは聞き入れられること無く狂い咲く高笑いに蹂躙される。





 頭を抱え込むように身体を縮こませた。







ぁ……。
ぁぁ……───!









 歯の奥がカチカチ揺れる。


 吹き出る冷や汗が肌から流れ落ちて、服に染み込む。





ぁ……ぁあ……あ……あ───!














 身体が震え、引きつる呼吸は少しずつしか入ってこない。



 酸素が、腐臭を纏って冷たい。











───…あぁっ!










 数回に分けて息を溜めきる。











それはっ!!
ダメだっ!!




















 鼓膜を破壊せんと、誰かの声が嗤い声を掻き消す。








俺のはあげられないっ!!

大事なモノだ!!









 馬鹿みたいに大声を上げる。




 口の端が切れそうなほど、大きく大きく口を開けて、怒鳴り付けていた。













   ∞∞∞∞∞
























 ビリビリ身体を震わせる。
 有りったけの大声が室内に響いて肉の動きさえ止める。









聖丘秀司

オレのことを心配してくれる人の為にも、それは出来ない!!










 身体を締め付けていた肉が、緩やかに滑るとびちゃと床に腐り落ちた。




 吸い込まれるように床へ消えていく。




 俺の服には腐れた肉で乱れて汚れていた。


 動けるようになった、その瞬間。俺は駆け出していた。












聖丘秀司

だから……──!!







 ぴたっと、聖丘君が動きを止めた。



 ゆっくり顔を上げて、目の前の肉へ視線を向ける。








穂村 繁

このぉっ!!






 掛け声と共に俺は肉の上部目がけて思いっきり足を振り回した。




聖丘秀司

?!










 しかし、それは触れる寸前で消え失せる。



 そして。



聖丘秀司

だあっ!








聖丘君の頬を
容赦なく直撃した。




穂村 繁

しまったぁあああーーーー!








 聖丘君は、ベッドから転げ落ちてしまった。



 床に着地した俺は、慌てふためきながらベッドを回り込む。足を押さえてひっくり返っている聖丘君に、俺はぞっとしながら片膝をつく。






 どうしよう、ただでさえ骨折れてるのに、蹴り飛ばしちゃったんだけど!?



 どうすれば良いんだ!? 






穂村 繁

ご、ごめ……!

十日後……――






 再び、後ろから声がする。



 俺と聖丘君は、弾かれたように顔を出入口へ向けた。






 ドアの前に寄って集った肉は、うねうね蠢いて、人間の形を作る。次第に皮を被った子供へと変貌した。






 足も、手も、胴体も当然ながら、爪も、口も、鼻も、目も、髪も、人間になろうと皮を被った。





 そして、ゴムみたいな白いボールが眼窩の中で『ぐるん』と回転して、目を造る。




 先程と同じ顔の男の子に戻ると、笑みを浮かべて取っ手を握った。


















約束……

















 聖丘君へと指を差して、ドアを開け放つ。












『君の』を貰う……──約束……










 その先は、紫と黒がうねる世界。





置いておく……その時計で、十日後の五時……『取りに行く』……

穂村 繁

待てっ!










 俺は再び駆け出そうと足を一歩踏み出す。




 その俺の腕を掴む、ひやっと冷たい手。







 心臓がはねたけど、それは俺を締め上げていた肉の塊などではない。




 血が通った、生きている人の張りが有る手だ。






聖丘秀司

待って、穂村……行くな……












 聖丘君の、低い声。


 彼は俯いて床だけをじっと凝視していた。




 けらっと嗤って首をガックンと傾けると、男の子は紫と黒の世界へ踏み出した。





 男の子の姿が、一瞬で消える。






カチッ。





























 空気が軽くなる。



 ドアは、人を無しに、かたりと閉まる。




 再び、時計の秒針だけが音を出す病室に戻った。





 辛かった呼吸が、簡単に、当然のように出来るようになった。






穂村 繁

あいつ…!












 ぎりっと、唇を噛みつける。








何も出来なかった。



 しかも、
聖丘君が大声で怒鳴ってくれなければ
完全に動く気力を失っていた。







噴き出た汗に体がぐっしょり濡れている。






彼の首筋が、
夕日と蛍光灯を浴びて、白く光っていた。






掴んできた腕から震えが伝わる。
 でも、震えているのは『寒い』からじゃない。







驚愕に目を丸くし固まっている聖丘君。


呼吸がまだうまく出来ないのか、
口を小さく開けたまま荒い呼吸を繰り返していた。






その間、ずっと聖丘君の呼吸音だけが響く。



 それから何分が過ぎて目があった。

まるたった今、俺を見つけたような反応で。





彼は漸く息を吐き出した。

肩を落として、ずるり、と手が離れる。















聖丘秀司

……思いっきり、握りすぎた……―――

穂村 繁

え……?











 俺は首を傾げて、握られていた袖をまくった。



 赤く、ハッキリ、くっきり、聖丘君の大きな手形が残っていた。





 俺は、自分の出来うる限りの笑顔を浮かべる。






穂村 繁

大丈夫です。
あんまり痛くなかったし、気づかなかった

聖丘秀司

そうか……そうか……――

















 自分に言い聞かせるように呟いて、聖丘君は再び息を大きく吸い込んだ。










聖丘秀司

なら……良かった……――





















 安堵を秘めた、言葉。







 ベッドに腕を乗せて、骨折した足を庇いながら這い上がろうとする彼に手を差し出す。




 大丈夫だ、と腕だけで身体を引き上げた聖丘君はさすが体育会系というべきか。彼はすぐに片足だけで立ち上がれるように足を下方へ滑り込ませて顔を上げた。












聖丘秀司

――……!!












 聖丘君が、顔を上げて固まった。





 ぴたりと全く動かない。




 俺も聖丘君の視線の先へ顔を動かして……――目を剥いた。



























































ベッドの上、



子供が持っていた
両手両足の無い人形が


微笑みを浮かべて横たわっていた。





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