大翔の問いかけに瞳を閉じたままの千早は答えない。これが本物のはずがない。昨夜体育倉庫で小さくなっていた千早が本当の千早のはずだ。そんなことは大翔も理解している。ここにいるのは偽物で、大翔が倒すべき仇敵なのだ。
嘘だろ? この夢の元凶がお前なんて
大翔の問いかけに瞳を閉じたままの千早は答えない。これが本物のはずがない。昨夜体育倉庫で小さくなっていた千早が本当の千早のはずだ。そんなことは大翔も理解している。ここにいるのは偽物で、大翔が倒すべき仇敵なのだ。
それでも、千早の姿をしているものに手に持った武器を振るえるかは別の問題だ。割り切って考えられるほど光のような冷静さを持ち合わせてはいないし、攻撃してから考える乃愛のような豪胆さも持ち合わせてはいない。
大翔の背中で激しくぶつかる音がする。カベサーダの軍勢がトラップを置いた部屋から戻ってきたのだ。校長室の扉はもう大翔が壊してしまった。三人で抑えたところで長く持つようなものではない。
振るうか。大翔は覚悟を決めて武器を振り上げる。
白い肌、美しい黒髪、艶かしい首筋。
これを今から壊す。
早くしろ、神代!
最後にもう一度、と大翔は幼い千早の幻影を見下ろした。贋作とはいえこれほどの危機にあって、未だに瞳も開かず、微動だにしない。おかしい。彼女の意思はどこにある? 万事休すと諦めるにしてもその面影と潔さの間に大きなズレがある。
もう一歩、大翔が近付くと、安定のために広く作られた椅子の脚にぶつかった。千早の体が傾いた。
見下ろした千早の幻影のうなじ。艶かしさと壊れてしまいそうな儚さを持つそれに白く丸いものがついていることに大翔は気がついた。糸でくるまれたそれに何かを確信して大翔は手を伸ばす。
お前か!
千早の首に絡みついたそれを乱暴に握り引き剥がす。存外にあっさりと取れたそれは親指ほどの大きさの繭だった。武器を床に落とし、両手でその中身を探る。中からは蝶のさなぎのような殻に覆われた小さな虫が出てきた。
こいつが全ての原因か。
こんな小さな体であれほどの数の怪物を操り、多くの人間を苦しめ、殺した。
それをこんな程度で終わらせることに大翔はまだ納得はできない。
それでも。
これで、終わりだ!
虫を摘んだ右手を掲げ、指に力を込める。今まで大翔たちを苦しめた仇はあっけなく大翔の指に押し潰された。
緑色の体液が大翔の腕に垂れる。それを嫌って大翔は潰した虫の死骸を床に叩き捨てた。
奴らの様子がおかしいぞ
扉を押さえていた手応えが変わって、少しずつ内側の三人が押し始める。明らかに様子がおかしい。カベサーダの勢いが消え、ついに外れていた扉が外側に倒れた。
やったんじゃな、神代
たぶん
廊下に倒れたカベサーダの群れ、一階を埋め尽くすほどの数がいながら、どれもピクリとも動かない。頭の触角はどれもしっかりとついているが、やはりさっきの虫がカベサーダを操っていた元凶だったのだろう。
そうだ、堂本!
悪夢の元凶を取り除いたはずの千早の体はまだ少しも動かない。大翔が肩を揺すってみるが、やはり反応はなかった。
間に合わなかったか
縁起でもないこと言わないでください
乃愛が大翔の肩に置いた手を反射的に振り払う。
堂本!
白い肌に顔を寄せて大翔は呼びかける。それでも少しも動かない千早の姿を見て、大翔は気がついた。
この少女はやはり中学時代の千早なのだ。現在の千早ではない。ここは夢の世界。誰かの、たぶん堂本千早の頭の中。大翔の頭の中にあの日のままの和弘がいるように、今より幼さの残る千早がいてもおかしくはない。それとは別に本物の、現在の千早がどこかにいるはずなのだ。
もしも、千早がいるとしたら。
あそこか
隠れるなら、彼女はあの場所にいるだろう。暗く、狭く、逃げ場もない。ただ助けてもらったことがあるという再びの幸運だけを頼みにして、あの場所で同じように膝を抱えて、小さく丸くなって誰かが来るのを待っているに違いない。
ちょっと行ってくる
行く、ってどこにだい?
光の問いかけに答えず、カベサーダの死骸を踏みつけて大翔は一階の廊下を駆けていった。
グラウンドに続く昇降口を抜けて、さらにまっすぐな廊下をひた走る。
思い切り走るのは床に落ちたものが邪魔だった。足を置く場所を探していると自然とスピードは出なくなる。千早がそうしているのだろうか。思い切り走ることをやめた大翔にはこのくらいがちょうどいい、と彼女は思っているのかもしれない。
もう走らなくていい、と。
それをあんな怪物に追いかけ回されては、大翔だって走らざるをえなくなる。ここ数日でどれほど走ったことだろうか。陸上ならきれいに整地された何もないトラックを走るだけだったが、ホテルで、ショッピングモールで、学校の廊下で。色々な場所を走らされた。
大翔は足を止めて、それからゆっくりと廊下を歩き始める。目的地はもうすぐそこだった。
校舎から出ると本来ならまだ続くはずの廊下の代わりに体育倉庫がすぐに置かれている。現実の学校ではありえない構造だが、夢の世界なら存在しうるのだ。
重く分厚い体育倉庫の扉は昨夜カベサーダに破られたはずだが、やはりきれいに直っていた。その扉に手をかけて、ゆっくりと左右に開いた。
真っ暗だった倉庫の中に光が差し込んだ。ホコリっぽい空気が外に誘われるように流れ出ていく。光の下に千早の姿はない。当然だ。隠れているところはわかっている。扉を抜けて左側高飛び用のマットの一番上だ。
堂本?
千早のいるはずのマットの上に呼びかける。
神代くん?
少しの間があって、千早の声が返ってきた。
助けに来たぞ
今朝約束したとおり、助けてやると言ったそれを守ったのだ。
何それ?
何、って確かにちょっと似合わねぇけどさ
マットから降りてきた千早は少し笑いを堪えながら倉庫の中から出てくる。校長室で見た千早と比べるとやはり少し大人びているように見えた。せいぜい半年ほどの変化だというのに大翔にはその違いがやけに大きく感じられた。
あいつら、神代くんが倒しちゃったの?
そうだよ
本当に?
言葉では疑っているようで、その瞳にも声にも疑問の色はない。千早にとってはここはただの夢の世界だ。目の前にいる神代大翔は彼女が作り出した幻想に過ぎないと思っている。
じゃあ、どうして助けてくれたの?
それは、俺は実は正義のヒーローだったんだ
変なの
大翔の答えに千早はくすくすと笑った。大翔もとっさの自分の答えに苦笑いが浮かぶ。
どうせ千早にとって今の大翔は夢の中の存在だ。どうせなら好きだから、と言ってしまえばよかったのに、大翔にはできなかった。
でもちょっとかっこいいから許してあげようかな
微笑んだ千早に大翔は本心を言わなかったことを少しだけ後悔した。この調子だと現実の千早に向かって言える日は遠くなりそうだった。
それじゃまた明日、学校でね
あぁ、寝坊するなよ
手を振る千早に大翔は気恥ずかしそうに控えめに手を振り返した。
千早の姿が歪む。もう朝が来たのか、大翔はねじれる視界を我慢しながら千早に手を振り続けた。