その夜。
その夜。
ただいま~。
部活まで終えて帰ってきた理を待ちかまえていたのは、そんなに辛さを感じない、カレーの匂い。
……え?
大きめの鞄を肩に掛けたまま台所に顔を出すと、すっきりとしたエプロンを着けた晶の手の中に、明らかに甘口と書かれているカレールーの箱が見えた。
あ。
お帰りとも言わず、もう一方の手に握っていた携帯端末を、晶は理の鼻先ぎりぎりに突きつける。
済まない。
機械が故障して遅くなる。
ついでに母さんとデートしてくる。
この社宅から車で三十分ほど田舎に引っ込んだ場所にある工場で何かを作ったり修理したりしているという父からの連絡が、液晶端末に踊っていた。
晶と二人きりで、食事……なのか?
高揚が、理の心を浮き立たせる。
しかしその感情を顔に出せば、晶からのキモい攻撃が来るのは自明の理。
……。
だから理は、感情を無理矢理心の奥底に押し込め、自分の部屋に鞄を置いてから晶がよそってくれた丼カレーの前に座った。
……おおっ、これは!
カレーの上には、近くの肉屋特製のトンカツも乗っている。甘口のカレールーといい、珍しいほどに至れり尽くせりだ。
これは、……まさか。
不意に脳裏を過ぎった感情が、理の頬を熱くした。
普段は「キモい」と言い続けてはいるが、本当は、晶も、理のことを兄として慕っている、のか? 理の思考は、しかし、理の向かいに座った晶の言葉に打ち砕かれた。
理。
スプーンを掴んだまま、晶が、理をまじまじと見つめる。
我が妹ながら、綺麗な瞳だ。
無意識の思考が、理の心を揺さぶった。
『弟』の、あいつも、いつも、澄んだ瞳で自分を見つめてくれた。
美奈のこと、知ってる?
だが。
次に晶の口から出てきた女性の名前に、思考が真っ白になる。
美奈?
誰、だ?
疑問は、しかしすぐに、晶の言葉で解けた。
先週、駅前の繁華街でナンパされて困っていたところを助けてくれてありがとう、って。
ああ、あれか。
思考を、先週に戻す。
先の休日、陸上部の練習遠征の帰りに、小柄な少女に絡んでいた数人の軟派な奴らを蹴散らした覚えがある。
小学生くらいしか見えなかったが、あの少女、晶の知り合いだったのか。カレーを食べる手を止め、理は晶の大人びた黒髪をまじまじと見つめた。
全く、こんなキモいやつのどこが良いのか分かんないけど。
その理の視線をはぐらかすように、晶がカレーを少しだけ匙ですくって口に入れる。
美奈、ずっとぼうっとしちゃってて。
話聞いたら、同じ家政クラブの友人としては助けてあげなきゃ、って思って。
……。
……って聞いてるっ、理っ!
あ、ああ。
ヤバい。いつになく悄然とした晶の声に聞き惚れていた。
罵声に変わった晶の声に、姿勢を正す。
で、まあ、その。
その理の前で、晶の言葉が一瞬だけ、濁った。
彼氏、は無理かもしれないけど、一度だけ、映画、連れて行ってあげてよ。
丁度、女子校内で評判の恋愛ものが駅前の映画館に掛かっているから。いつになく真っ直ぐな晶の視線に、かつての『弟』の視線を重ねる。あいつも、譲れない言葉を発するときにはいつも、この視線で自分を見つめていた。だから。
あ、ああ。
晶の言葉に、理は無意識に、承諾の頷きを返していた。