古いアパートの玄関に辿り着いた途端、母の声が理の耳をひっぱたく。
ただい、ま……。
晶っ!
古いアパートの玄関に辿り着いた途端、母の声が理の耳をひっぱたく。
また理のパンツだけ洗濯機の中に残してっ。
だって触りたくないんだもの!
一緒に干せばいいでしょ。ついでなんだから。
イヤよっ!
本当は、私の下着と一緒に洗濯するのもイヤなんだからねっ!
理が幼い頃からずっと暮らしている社宅の奥にあるベランダに向かう母の呆れたような大声も、その母に返す、ベランダで洗濯物を干している妹の晶の心底うんざりした声も、いつもの通り。
あんな気持ち悪い、派手派手のパンツなんて。
派手で悪かったな。
苦い気持ちを、肩を竦めてごまかす。
後で俺が干しておくから。
呆れた顔のまま台所へと戻る母にそれだけ言うと、理はロードワークでかいた汗を流すために風呂場へと向かった。
そう。
母の方も、本気で晶を叱る気は無いようだ。
やれやれ。
濡れた服を洗濯機に突っ込んでから、洗濯機の端に引っかかっていた洗濯したてのトランクスを手にする。
晶が干し終えた洗濯物が翻るベランダに立つと、父のものである白いブリーフが、理をバカにするかのようにひらひらと風に煽られていた。
……はあっ。
知らず知らずのうちに、溜息が口をつく。
父親の下着は嫌がらず干すのに、何故俺のは。派手なトランクスを広げながら、理はもう一度、小さく息を吐いた。
全く。
……昔は、前世では、もっと素直に、兄であった自分を慕う奴、だったのに。
呼び方も、前世ではずっと敬称で、いくら自分が「呼び捨てで良い」とか「兄と呼べ」と言っても聞き入れてはくれなかったのに、今はあっさりと呼び捨て。
まあ、それはそれでいいんだが。
……自分が望んでいたことだし。
そんなことを思いながら、理は朝食の準備ができた食卓に、前世は『弟』であった『妹』、晶の隣の椅子に腰を下ろした。
……。
既に椅子に座っていた晶が大仰に身を逸らすのも、いつものこと。既に慣れた。
今日、夕方から会議で遅くなるの。
理の方へ丼に盛った御飯を差し出した母が、普段通りの声を発する。
母は、理が通う大学で事務職員をしている。学生や教職員が持ち込むやっかいごとをてきぱきあっさりと処理してしまうことで密かに有名にもなっている。だからこそ、色々と忙しいのだろう。御飯に佃煮を添えてかき込みながら、理は小さく頷いた。
じゃあ、今日はカレー作る。
その理の横で発せられた、具沢山の澄まし汁のお代わりをよそっていた晶の言葉も、普段通り。
お、晶のカレーか。久しぶりだな。
その後で聞こえた、父の、少しにやついているように響いた声も。
辛いのにしてくれ。
良いよ。
こいつらは……。
にやりと笑う父を、睨む。
辛いのは苦手だと、理は家族の前で何度も言っている。
しかし理の視線などはどこ吹く風。父は理と同じ大きさの丼飯を食べ終えると、食べながら読んでいた新聞を手早く畳んで立ち上がった。
それじゃ、仕事は早めに片付けるか。
作業服の襟を直しながらの父の言葉に、父がテーブルの上に置いた新聞を自分の方へと引き寄せていた晶の横顔が笑みを浮かべる。
全く、なんで父親には優しいんだ?
普段通りの怒りを、理は残りの御飯と共に飲み下した。
父も、母も、晶には甘い。おそらく理より成績が良いからだろう。小学校から大学までずっと公立の理とは異なり、晶は、中学受験が必要な地元の名門お嬢様女子校に通っている。
身体も、前世同様、小さい頃は弱くて度々熱を出して寝込んでいたが、理も中学で陸上に目覚めるまでは通っていた、父の友人が師匠をしているよく分からない武術道場に通うようになってからはめきめきと丈夫になっている。
なのだから、理と晶、同じ位とはいかないまでも、もう少し理にも配慮が欲しい。それは、理の我が儘なのだろうか?
まあ、良いか。
拒絶するかのように、新聞紙で理との間に壁を作って新聞を読む晶の方を、瞳だけで見る。
……。
晶が幸せなら、それで良い。