その日が

新月の夜

であったのはたまたまではなかった。

数奇

星の写真を撮りに出かけていたんですね、夫婦は

五日町

ああ、間違いない。今までにも新月の夜には出かけることが多かったようだ

月光に邪魔されない新月の夜は、星がよく見える。

五日町

たしかに遠巻満にああ言われた時、『今夜は新月』だと、返した。そうでなくとも、畳みかけられて聞かれれば月の有無くらい言うだろう

数奇

そこで満さんは、今夜が月の出る日ではないと知ってしまった、いえ、確信した

それまでは、今日は月の見える日だと思っていた、いや、思わされていたのだ。

数奇

月の満ち欠けは約二九.五日でしたか。月末が新月、と考えるのは雑すぎますが、しかし今は八月

五日町

新月の夜には特別な現象がなくとも写真を撮りに出かける夫婦のことだ、

『中秋の名月』

の日付くらいなら口にすることもあったのだろう。

あとは簡単な計算で、かなり正確な日付が求まる。

例 2017年9月の満月……9/6
  ここから「29.5日」を除くと8/7と半日

  実際の8月の満月は8/8

五日町

遠巻満は、あの時点で、眺と仁四郎が出かけるこの晩は新月だと推測していた。

そして、その仮定の下計算した日付と自分の認識に差があることに気づき、怪しんでいた

それは、彼の家族たちが盲目の彼を騙し続けてきたこと、日付を正しく教えられていないことを表していた。


おそらく満氏は、テレビやラジオを聴くこともできない、他人との接触もできない生活を送っていたのだろう。


疑惑を検証する機会がなかったのだ。

五日町

家族に邪魔されず人から話を聞ける機会を逃す手はなかった。新月だという確信を得るために、あの台詞を使った

数奇

もしストレートに日付を聞いていたら、傍からは認知症か何かを疑われるかもしれません。

そうしたら、遺書を作成しても信頼を下げられる可能性があります

数奇

それに、五日町さんが本当に味方になってくれる保証はありません

五日町

警察手帳は手触りや香りや音で分かるものではないからな。
あの言い回しにしておけば、疑われても冗談だと切り抜けられる。

やはり、歳からすれば驚くほどに頭の回る男だ

数奇

目的は何だったのでしょうか

五日町と数奇は、喫茶店『ナトゥーラ』で紅茶とコーヒーを手に向かい合っていた。

香りの強い飲み物が苦手な数奇が頼むのは、いつもこの店の「無香茶」という一杯だ。

数奇が事件の話を聞いたあの晩から数日。

五日町に新月について問いただされた遠巻満はようやく口を開き、多くを語った。

今や、おおむね事件の骨格が見えていた。

五日町

遺書か相続関係の何かか、書類の失効が狙いだったようだ。定期的な更新の必要や書き換えに期限がある書類もあるからな。

はっきりどれと特定できたわけではないが、遠巻満が逆上するきっかけだったことは確かだ

あの事件は結局、眺が訴えを取り下げることで落ち着いた。
書類とやらもまだ期限が過ぎてはいなかったらしく、満からもことを穏便に収めることに異論は出なかった。

三人がお互いの所業についてどう決着をつけるのか、それはもう警察を巻き込むことではない。

五日町

そういえば、意外なことが遠巻満から聞けたな

数奇

五日町

あの庭の話だ

花屋敷、などと囁かれてはいたが。

庭に大量の花が無計画に植えられているのは、なんということはない、家族から満氏への機嫌取りだったのだ。

各々の親族たちが競うように植えていたから、あのような脈絡ない形になっていたのだろう。

よく見れば、種をばら蒔いたり何も考えずに水を撒いたりしたのか、生育がひどく悪いものも多かった。







見えないなら大丈夫、とでも思っていたのか。




当の本人によれば、花の香りで概ね生育状況は分かるのだという。

そんな庭に愛着など持てるわけがない。道理で犬に踏みつぶされても気にも留めないわけだ。

五日町

『花屋敷』の主人も、万花を愛するわけではないか

数奇

……五日町さん、たしか、言っていましたよね。満さんの失明のきっかけは、数年前の、離れが焼け落ちた火事が原因だと

五日町

ああ

数奇

その前は『花屋敷』なんて聞かなかった、ということは、離れがあったとはいえ、広大な庭を花に費やすことにはそこまで熱心ではなかったわけです。
どんな種類の花でも見境なく好きというわけではないのだと思います

五日町

なるほど

数奇

それと、いくら目的のためとはいえ、月を利用するなんてまったく興味もないのに思いつくことでしょうか。眺さんたちの話題に耳を傾けて情報収集したりできるでしょうか。
もしかしたら、

五日町

そこまでにしておけ、数奇

数奇

でも

五日町

いくら『好き』の範囲に偏りがあったところで、いくら相手の趣味の範囲に対する知識理解があったところで、あの男は月や星を愛でることはない。
たとえ親子でも、趣味嗜好で相容れないものは、そう容易にどうなるものでもない

五日町は子供に対するように数奇の頭に手を載せた。

触れられ慣れていない数奇はわずかに身を縮めるが、すぐに緊張を緩める。

五日町

お前が無理に救う必要は無いことだ


ハッピーエンドなんて、いつでも望めるようなものではないのだから。

数奇

……はい

五日町

じゃ、ヘッドフォンして待ってろよ

数奇


五日町は立ち上がった。

五日町

通りの右端に見えるカーブミラーに、指名手配犯に酷似した顔が見えた。
五月蠅くなるかもしれないからな


そして猛犬を素手で確保した時と同じ平静さで店を出た。

‡0.1 「好き」には程遠い 了 ?

‡0.1 「好き」には程遠い ーⅴ

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