[墨野 博叉(すみの ひろさ) が殉職した]

その知らせを聞いたとき、夜暮(よくれ)はアメリカンコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり注いだものを飲んでいたところだった。
ほとんど白色だが、夜暮はこれでもやや苦いと感じている。

夜暮

……この紙切れが遺言代わりか

数日前、連絡が途切れたときから、予感はあった。


そういう仕事だった。危ない組織に潜り込み情報を暴く、そういう仕事ばかりをやっていた。

同僚であり、優秀な潜入捜査員であり、時には相棒だった。
あえて墨野への言葉は口にしない。

夜暮は封筒を開けた。昨夜夜暮のアパートに届いたもので、墨野からだった。

夜暮

ここで見ても……まあ、問題ないか

夜暮がいたのは喫茶店『ナトゥーラ』。テーブル同士の間にはゆったりとスペースがとられていて、普段は捜査の話も気兼ねなくできる。

しかし、今日は珍しく混んでいた。来た時にはすでに空席のテーブルがなかった。

申し訳ございません

とはいえ、相席になった青年は店内なのに薄いパーカーのフードを被り俯いていた。こちらを見ているわけではないし、見られても問題ない書類だ。恐らく。

……

夜暮

美人の女なら話しかけてたんだけどな、顔見えないけどつまらなさそうだし

コーヒーの苦味を味わう舌を持たない夜暮がここにいる理由はひとつ、上司との待ち合わせをしているからだった。この手紙について話し合わなければならない。

混んでいるのは予想外だったが、このテーブルには四つ椅子があるし、そのうち空いてくるかもしれない。
とにかく、店の前で立って待つのは嫌だったのだ。

他の本格珈琲店では怒られそうな注文ができるのはこの喫茶店の良いところで、ほとんど無味無臭のグリーンティーとか不思議なメニューもあった。

彼の上司の五日町 環(いつかまち たまき)は、よく遅刻する。今だって集合時刻を三〇分以上過ぎているのだ。

といっても、時間にルーズというわけではない。むしろ五日町本人はストイックな性格だ。
しかし……

夜暮

今度は何だろうな?



歩けば逃亡犯とすれ違い、走ればひったくりと遭遇し、バスに乗ればジャックされ、電車に乗れば痴漢を見つける……それが五日町の日常だ。
五日町に逮捕された犯人は数知れず。


治安がそれほど悪いわけではないのだが、他者の不運を全て奪い取るほどの勢いで五日町が事件に遭うのだ。

夜暮

……先に『会議』始めてますか。っていっても……


つい昨日墨野から届いたのは、本当に

紙切れ

だった。意味のないダミーの書類の中ほどに、ホッチキスで一緒に留められていたのだ。



夜暮はその紙切れだけを持ち歩き、昨日から、暇さえあれば見ていた。

夜暮

これじゃあなあ……

この紙切れに、墨野が潜入していた組織のトップの名が書かれている。

そのはずなのだが、暗号化されているらしいそれは夜暮にはさっぱり意味が分からなかった。



夜暮

暗号の解き方くらい書いてくれたら良かったのに



これでは遺言すら読み取れない。紙片をぞんざいにテーブルの上に放り出して、夜暮は呟いた。

夜暮

困ったなあ


 

タムラ、マサシ?

夜暮

?!

突然聞こえた声に驚いて横を向くと、相席していた青年が紙片をじっと見ていた。

放り出した紙が青年の方へ滑っていってしまっていたのだ。

夜暮の視線に気づいたのか、顔をこちらに向ける。
フードがずれて、顔があらわになった。
今まで気づかなかったが、ヘッドフォンをつけていたようだ。

夜暮

あ、綺麗な目

……ごめんなさい


彼は紙切れを夜暮の方へ滑らせると、すぐに目を背けた。

夜暮

待って

咄嗟に彼の片腕を掴み、動きを止めていた。



そのヘッドフォンにノイズキャンセリング機能がついていなかったら、そこまでしなかったかもしれない。

!!

びくり、と腕に衝撃が走った。だいぶ驚かせてしまったようだ。

彼は掴まれていない方の手でヘッドフォンを外し、ゆっくりと夜暮の方を向く。

意外にも、無表情だった。

首がゆっくりと傾く。なぜ引き留められたのか分かっていないようだった。

夜暮

あ……やっちゃった

‡1 僕は逃げたい ーⅰ

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