薄ら寒い空間に向かって、精一杯の声を出す。
……
薄ら寒い空間に向かって、精一杯の声を出す。
だが、闇色の空間に響いたのは。殆ど聞き取れない自分の声。
……
落ちそうになった涙を、瞼で止める。
泣いていても、始まらない。
ここから脱する術は、知っているのだから。
……よしっ
冷たい空間に独り頷くと、怜子(さとこ)は頭に叩き込んだ旋律の一つを口の端に乗せた。
……
怜子が紡ぐ、歌とはお世辞にもいえない旋律が、周りの闇色を震わせる。
だが。
……薄ら寒い空間は、元のまま。
この旋律では、ない、の、……か
横に垂らしていた両手を身体の前でぎゅっと握り締めると、怜子の口は別の旋律を紡ぎ始めた。
『歪み』と呼ばれているこの空間を解析する術も、『歪み』を消すための『波』を見つける術も、今の怜子には無い。できることは、『歪みを知る者』の先輩、雨宮勇太から教えてもらった、『歪み』を消す『波』を持つ旋律を、紡ぐことだけ。
と。
……あ
旋律が『歪み』に合致したのか、怜子が紡ぐ声に合わせるかのように、冷たい空間が揺らぐ。
……あ
次の瞬間には、怜子の身体は、夜闇に染まった帝華大学理工科学部の見慣れた廊下の中に、あった。
良かった
ほっと、息を吐く。
『歪み』には、この大学に入学してから何度も、囚われている。だからこそ、あの薄ら寒い空間には、……怖さしか、感じない。
怜子ちゃん?
聞き知った声に、固まっていた両手をほどいて顔を上げる。
香花、さん
こんな時間に、どうしたの?
『歪みを知る者』の一人、怜子の先輩である三森香花が、きょとんとした瞳を怜子に向けていた。
まさか、『歪み』に……
大丈夫です、香花さん
一瞬で顔色を変えた香花に、先程までの恐怖に蓋をして微笑む。
博士論文作成中の香花に、これ以上の心配をさせてはいけない。
怜子が紡いだ旋律のおかげなのか、『歪み』は、もう、どこにも見あたらない。
大丈夫
光を無くした、それでもどこか暖かい廊下を慎重に見回してから、怜子はもう一度、今度はしっかりと微笑んだ。
なら、良いけど
……
香花、さん?
……お腹、空いた
急に小さくなった香花の言葉に、慌てて右手を差し出す。
大丈夫、ですか?
う、うん、……多分
下宿先である父方の叔母の家には、父が作り置きしている野菜のおかずがあったはず。遅い時間だが、それと卵とで、何か作ろう。
怜子の小さな手を掴む香花の冷たい手に、怜子はこくんと頷いた。