……

 音の絶えた、薄暗く寒い空間を、意外なほどに落ち着いた意識で見回す。

 背中から下ろしたギターを爪弾くと、意外なほどにか細い音が辺りの空気を震わせた。

これが、『歪み』の中、なのか……?

 もう一度、今度はじっくりと観察するように、辺りを見回す。

木根原も、『歪み』に閉じ籠められてしまった人々も、こんな寂しいところで、……闘ってたのか

 今更ながらの感情に、勇太は小さく息を吐いた。

とにかく、出口を見つけないと

 か細い音しか出ないギターを、大きく掻き鳴らす。

 この大学の教授であった者が理論を作り、この建物を作るときに埋め込んだ、空間を歪ませて建物内部を広くする仕掛け。

 その理論は完璧であったはずで、普段は誰も何事も察知することなく建物内で生活できるのだが、それでも時折、今の勇太の状況のように、空間の『歪み』が人や物を飲み込んでしまうという現象が起こってしまう。

 その『歪み』を見つけ、正すのが、橘教授の薫陶を受けた勇太の兄、この帝華大学の准教授である雨宮秀一と、彼が集めた仲間達。

……

 もちろん、勇太も、不本意ながら、その『仲間達』の中に入っている。『音』を使って『歪み』を見つけ、修正することが、勇太の役割。

 その勇太の『能力』を見つけた兄のスパルタのおかげで、一浪はしたが勇太の学力では高いハードルだったこの大学に入ることができ、そして得難い仲間を得た。

そこだけは、あいつに感謝すべきなんだろうな

……口が裂けても、言えないけど

 そんなことを考えながら、薄ら寒い空間を歩く。

……

 出口は、中々見つからない。

三森の理屈を信用して、『歪み』を相殺する『音』を探すための積分計算の練習をしておくんだった

 木根原よりも一回り小さい、それでも存在感のある三森のキツい視線が脳裏を過ぎり、勇太は再び肩を竦めた。

いや、あんな複雑な計算、三森以外に暗算でできるヤツいるのか?

 その時。

 不意に、薄ら寒さの種類が変わる。

あ……

 薄暗さは変わらないが、『歪み』から抜け出したことは分かる。

ここ、は

 清潔な消毒液の匂いが、勇太が現在大学構内のどこにいるかを教えてくれた。

あら

 聞き知った低い声に、顔を上げる。

林先生

 机横の電灯が一つだけ光る空間にいたのは、帝華大学理工科学部構内付属の保健室の医師、林広美先生。

 橘教授の姪で、『歪み』に囚われ我を忘れた人々をしばしばここに運び込んでいるため、勇太のことも、『歪み』のことも、よく知っている女性が、勇太の前で微笑んでいた。

こんな遅くにどうしたの?

林先生こそ

 窓の外の暗闇に驚きながら、それだけ返す。

保健室はもう閉まっている時間なのに
なぜ、先生はまだここに?

 首を傾げた勇太の耳に、あくまで優しげな声が降ってきた。

ちょっと、会議で厭なことを聞いてね

まあ、勇太君が心配することじゃないし
……お茶、飲む?

あ、はい

 あくまで軽い言葉に、微かな違和感を覚える。

 しかし深く考えることなく、勇太は、『歪み』で強ばった身体を溶かす温かいコップを受け取った。

pagetop