第一話
鬼が住むか、蛇が住むか

ちょっと不味いですよアライヲさん。一週間で来客数ゼロは!

たしかに。
そう言われると玉露が涙に見えてきましたよ。
お茶もわびさびを通り越してただ寂しくて泣いているようだね。

話を茶化さないで下さい!

お茶だけに?

だからそういう風に話をはぐらかさないで下さいよ!

二岡 アライヲ

はあ、味も音もすべて美味。
さすがは柿右衛門の南部鉄器。
部屋中に新緑が広がりますね。

窪中いにお

だからいい加減に和んでないで仕事して下さい!
ここは職場です。

二岡 アライヲ

ははは、まあそんなに角を立てなくてもいいじゃないですか?
お客さんなんてそうそうくるもんじゃありません。

ここ浅草の骨宝院通りでは
夕方五時の時報になぜか
『エリーゼのために』
が流れる。

二岡 アライヲ

うん、素晴らしい茜色ですね。

ところで『エリーゼのために』ってさ…何っ?
て思いません、いにお君?

二岡アライヲさん。
この骨法院通りにある骨董店
“璃玖堂(りくどう)”
の店主。


いつもこうやって
謎かけみたいな感じの
世間話を振ってくる。

窪中いにお

わ、また始まっちゃった。

そして翻弄されているのが
先月からここの契約社員として
働いている僕、
窪中いにお。

窪中いにお

その何って、その…どういう〝何”ですか?

二岡 アライヲ

おおいいですね、その聞き方!

エリーゼのために、
の後ろに入るフレーズですよ。

一体何をしたんだろうって話です。

二岡 アライヲ

あえて語らないところにイマジネーションを感じさせるっていう魂胆はわかるんですけど、
なんかこういうのはっきりしてもらわないとムズムズしてこないですか?

窪中いにお

魂胆て

窪中いにお

“捧げる”でいいんじゃないですか?
作者のベートーベンが「僕のエリーゼ、今日も愛してるよ!大好きだよ!」って作品を通して陽気に告白してる感じですかね。

二岡 アライヲ

こんなにもアンニュイな音階で!?
僕はそうは思えないです。
もっとこう鬱屈したベートーベンがグランドピアノの前で

「本当は口頭で会って伝えるべきだけど、顔も醜く背も低い、まして君の返事を聞く事のできないこの耳がなおさら疎ましい」

二岡 アライヲ

という心の葛藤を鍵盤の上で指をこまねいている内に音に変わっていった。

そう思いませんか!?

二岡 アライヲ

それにいにお君の回答だと
“エリーゼのためにささげる”
…いやだからけっきょく何をだよ!?っていう堂々巡りの話になります。

それを踏まえた上でもう一度ご感想お聞かせ下さい。

窪中いにお

…そこまでご自身の解釈が深まっているなら僕に意見を求めないでいただけませんか?

二岡 アライヲ

そして最終的に彼はきっとこのような茜色の空の下、譜面にその思いを綴り、手紙として彼女に渡したがその想いは叶わなかった。

二岡 アライヲ

さらには字も醜かったベートーベンは本当はテレーゼという女性に送ったはずだったのに誤ってエリーゼと読まれて後世に残る名曲となったのです!

二岡 アライヲ

この悲劇の連鎖について、いにお君はどうお考えですか?
自分なら耐えられますか?
僕なら到底無理です!

窪中いにお

何か質問の内容が最初とすり替わっていませんか?

それに別に音楽の解釈なんて人それぞれでいいと思いますけれども?

二岡 アライヲ

だからこの手の会話はそれを言ったらお終いでしょうが!

窪中いにお

終わって頂いて好都合です!
だって僕は仕事をしたいのだから!!

二岡 アライヲ

すいません。取り乱しました。

窪中いにお

こちらこそ、上司に対していささか無礼な物言いでした。

ただ、大変申し上げにくいのですがいくらお父様が資産家で、ある種の税金対策的に始めた商いがこれだとしても、あまりにも彼女を優遇しすぎではありませんか?

誰かが作った千手観音像 高さ10センチ 5万円

坊野香奈子作 千手観音デッサン(製作中)

坊野香奈子

この手の数は描き応えあるなあ。

この子が美大志望で二浪中の坊野香奈子さん。
受付アルバイトで雇ったはずが、
お客さんが来ないのを良いことに
ずっと骨董品のデッサンをしている。

二岡 アライヲ

まあ、別にいいじゃないですか。
香奈子さんの美大合格の助けになるのであれば。
応援してあげましょう?

窪中いにお

そんな事に気を遣うくらいならビラ巻くとか駅前に広告出すとかもっと営業努力してくださいよ!

二岡 アライヲ

それこそ意味ないですよ。
個人店がひと月5万の壁紙出しても費用対効果に合わないし、大通りでビラなんか撒いたら下手したら通報されますよ?
それにこんなヘンピな裏路地の骨董店なんかに足を運ぶ人間なんて誰もいないでしょう?

窪中いにお

あのですねアライヲさん。
僕はお父様から、あなたの素行をきつく見るよう仰せつかっています。
とにかくフリでもいいから仕事らしい仕事をして下さい。
報告書になんて書けばいいのやら!

二岡 アライヲ

仕事ならとっくに終わってますよ。

二岡 アライヲ

実は君がお茶を淹れてくれている南部鉄器が1時間前に10万円でネットで落札されました。

二岡 アライヲ

今時、古美術の売り上げの70%はネット販売なのですよ。

明日には発送するから念入りに洗っておいて下さい。

窪中いにお

なんでそれを早く言ってくれないんですか!
そもそも商品を私用に使っちゃだめでしょう?

二岡 アライヲ

私用?これはお手入れと言うんです。
いくら骨董品とはいえ定期的に使わないと物がダメになりますからね

窪中いにお

アンティークに実用性なんて誰も求めていませんよ!

二岡 アライヲ

何より今日でこの南部鉄器がお別れだって思ってしまうと僕は非常に悲しい。
玉露というよりこの子の涙の粒がお茶にじんわりと滲んでいるようです。
あー渋み

窪中いにお

んなわけるかあ!
あのバイトの子、坊野さんをそろそろ返す時間なんじゃないですか?

二岡 アライヲ

いや、でも香奈子さんはかなり集中してるみたいだから今はそっとしておいてあげましょうよ?
何か悪い気がして…

窪中いにお

いやいや、そもそもなんで受付勤務中に好きな描いて給料もらってるんですか!
まさか、いまデッサン描いてる時間も残業手当つけてないでしょうね…

二岡 アライヲ

やっぱり駄目でしょうか?

窪中いにお

なぜそれが許されると思える!?!

店の入り口でデッサンに夢中だったはずのアルバイトの坊野香奈子が恰幅の良い中年を目の前にしてもぞもぞしている事に気づいた。

坊野香奈子

ててて、店長!
なんとお客さんの可能性が!

楊 金満

あの…お取込み中すいません。
ちょっと見ていただきたい品物があるのですが

続く

第一話 鬼が住むか蛇が住むか

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