遅い歩みで学校に向かい、教室の席についてようやく大翔は自分がどこにいるのか思い出したような気がした。今の自分は高校生で、部活にも入らずただ日々を自堕落に過ごしている空っぽの人間だ。

 天井を見上げ、視界にぼんやりと映る教室の蛍光灯を眺めてみる。こちらは縦に三列、規則的に並んでいる。それがどれほど安心できるものかをこのクラスの中で何人が感じているのだろうか。

 まだ大翔には衛士が死んだという事実がどこか遠い場所のニュースのように感じていた。あの夢の中で初めて会った人物で、名前以外は何も知らない。彼の死ぬ瞬間の姿を大翔は見ていない。だからまだあの夢の中で生きているのではないか。そんな妄想にすがりたくもなる。

千早

またぼけっとしてる

 大翔の目の前で千早が手を振る。

千早

ちゃんと寝てる? すごい顔してたよ

大翔

お前は俺の母親か

 顔を強張らせて答えた大翔だったが、こうして千早の顔を見ると少し安心してしまう。大翔が思い悩んでいるときには必ずこうして関係のない話を始めてくれる。千早にはそれが普通のことだと思っているのだろうが、大翔にはこれほどない救いだった。

千早

本当に手がかかる子で

大翔

かけてねぇよ

 わざとらしく首を振る仕草は本当に晴美に似ていた。会ったことはないはずだが、どこで覚えてくるのだか。大翔はそう思いながらも晴美にするように片手で千早を払う。

真由

お、またやってる

大翔

また、ってなんだよ

 面倒なのが増えた、と大翔は千早を後ろから抱きしめた少女を睨む。大翔の反応にもすっかり慣れた様子で、少女、早島真由は言葉を続けた。

真由

夫婦漫才。いつも楽しそうじゃない

大翔

そりゃどうも

 明朗快活な短髪少女はこれで女子障害走のホープだったりする。入学してから同じクラスになった大翔を何かと陸上部に勧誘していたが、いつの間にか彼女の興味はすっかり千早の方に移ってしまった。

 今ではこうして千早に抱きついて大翔をからかうだけというよくわからない存在になっている。ちょっとばかりスキンシップが過剰じゃないかと思わないでもないのだが、千早もそれほど嫌がっていないし、大翔が口を挟めることではない。

千早

ちょっと、真由ちゃん。夫婦って

真由

だいたい合ってるでしょ。いいなぁ、私も千早と同じ中学がよかった

大翔

そこだと俺もいるんだが?

真由

じゃあ、私と神代が代わればいいんじゃん

 想像するのは自由だ。勝手にしてもらって構わない。大翔は反論するのも面倒になって苛立った心にフタをするように机に伏せる。真由の方はというと、千早のセーラー服の裾に手を入れてなにやらくすぐっているようで大翔は余計に顔を上げられなくなった。

千早

ひゃん、と、とにかく授業中は寝ちゃダメだからね

大翔

はいはい

 大翔は顔を伏せたまま答える。

 嫌でも眠るつもりなどなかった。居眠りしたところで大翔はまたあの夢の中に落とされるのだろうか。たった一人で右も左もわからない空間で命を賭けた鬼ごっこなど馬鹿げている。頬をつねり、手の甲にシャープペンシルを突き立ててでも眠るつもりはなかった。

 嫌なことが近くにあると、普段あれほど嫌だった授業さえもなんとなく乗り気になって聞いてしまうものだ。大翔は高校に入ってから、いやもしかするとこれほど真面目に授業を受けたのことなど小学校の頃から思い返してもないかもしれない。

 授業が終わる頃にはなんだか秀才にでもなったような気分で、大翔は満足気に間違った問題を教科書とにらめっこしながら確認していた。

千早

大丈夫? あんなに真面目に授業受けて

 感心を通り越して心配になってきた、と千早が祟り神にでも触ろうかという様子で声をかけた。

大翔

真面目に受けてても心配されるのかよ

千早

そりゃ、普段と違うことを始めるのはボケの始まり、って言うし

大翔

お前、今すげえひどいこと言ってるぞ

 これで少しも悪気がないのだから性質がいいのか悪いのか、と大翔は溜息をついた。ただこの自覚のない暴言に大翔が救われているのは事実だった。心を遠ざけるような優しい言葉よりも千早の言動は大翔の近くにある。それが温かかった。

千早

どうしたの?

大翔

なんでもないよ

 じゃあな、とカバンを持って大翔は教室を出る。今なら冷静に今夜来ることがほとんど決まっている悪夢の対策を考えられそうだ。

 全部で三棟ある校舎の中でも校門から一番遠い旧校舎棟のさらに最上階の一番端。次は窓から落とされそうな場所にある情報部室の扉を開ける。

 部室には既に尊臣が我が物顔で席を占領している。そこから一番遠いパソコンの前に縮こまるように光が座っていた。

好きなところに座ってくれて構わないよ

大翔

それじゃ、失礼します

 今日も机の上に足を投げ出した尊臣から一番遠い対角線上に座る。自然、大翔の席は光の背中側ということになる。今外から誰かが入ってきたら、気弱な部員二人が不良に脅されている、と見えるに違いない。

尊臣

しかし、ほんまにええんか? 部室勝手に使うて

 一番不遜な態度の尊臣が言っても何の説得力もない。だったらその足を降ろせ、と言えないまま大翔は尊臣を睨みつけてみる。

構わないよ。どうせ僕しかいない部活だからね

 少しも効果はなく、尊臣は光の厚意に全力で甘えたままだ。

大翔

そういえば光さんって先輩なんですよね。やっぱり先輩って呼んだ方が

今さら変えたところで気味が悪いだけさ。あんな風にならないならそれで十分だよ

 光は尊臣に冷たい視線をやりながら溜息をついた。ここならげんこつが降ってくることもない。

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