…………

旋律が流れる。


教会の一室で。
優しい、讃美歌のような、魂に語りかけるような穏やかな音色。



シスターと、もうひとりの客人を包み込むように、ピアノの音が広がっていく。

…………

客人は、椅子に座ったまま身じろぎひとつしない。

ただ、思考をピアノの旋律に委ねている。




その口元は、どこか優しく、寂しげだ。

……ふう

演奏が終わる。

奏者はゆっくりと息を吐き、体の力を抜く。


普段、他の修道女達の成果の練習の時は、こんなに肩ひじ張らないはずなのに、客人の前では知らず知らず力が入っていたらしい。

いやあ素晴らしい演奏でした、シスター。教会のシスターとは、皆ここまで芸が達者なのですかな?

これくらいの伴奏でしたらどなたでも練習すればできるようになりますよ。私達シスターに必要なのは慈悲深くあり、主を身近に感じ続けることです

それ故に、こんな私のような者にも慈悲を与えて下さったのですか。アナタの演奏を聴きたいという

迷える方に救いを。それが主の願いです故

それは助かる。まさか二人きりにしてほしいという願いまで聞き届けられるとは、思っておりませんでした

シスター、最期になりますが、この老いぼれの懺悔を聞いて頂けますか?

それは勿論。主も一緒にお聞き届けしましょう

できれば主には席を外していただきたいかな。あまり誇れる話じゃないものでね

私は、画家を目指しておりました。かのフェルメールやベラスケスのように光を感じられる絵を描きたかった

ですが、才能という壁はあまりにも大きかった。同じ蔵のチーズをかじってきたはずの仲間ばかりが大成し、私には借金しか手は差し伸べられなかった。現実という闇をどこまでも憎みました

……はい

生活が苦しくなった私は妻子を手放しました。手切れ金もろくに渡せないまま彼女達の前から姿を消しました

休む間もなく働き、借金を全額返したころには、再出発は不可能なほど時間が体を蝕んでいました。慣れない炭鉱のガスに埋もれていたせいで、今こうして話すのもやっとです

妻子を捨てた身でとは思っておりますが、私の心残りは妻のことなのです。何も残してやれず、苦労しかかけてやれなかった……そんな私に誠心誠意尽くしてくれたかけがえのない妻のことが、気がかりでなりません

主よ、どうか、私の魂がこちらにある間に、お聞き届け頂きたい。妻と子に、精一杯幸があらんことを…………

こんな私にも……願ってよいのでしょうか…………?

…………

ピアノの前から立ち上がり、ゆっくりと客人の前に歩み寄る。


そして、うなだれる客人の頬に、そっと手を添える。

主は、お聞き届けくださいました。アナタの奥さんとお子さんは元気ですよ

…………

ご安心ください。奥さんはアナタを恨んでおりません。お子さんも大きくなられております。アナタのご家族は、幸福です

…………

…………そうですか。彼女達は幸せですか

主よ……感謝いた……し……ます

客人の顔は、とても穏やかだった。

居眠りをしていると言っても通じるくらいに。


安心しているようだった。

…………

シスターは踵を返し、再びピアノに向かい始めた。


客人に聞かせたのとは違う曲を、普段より強く弾き始める。

…………主よ、私の懺悔をお聞きください。私はひとつだけ、あの方に嘘をついてしましました

彼の子供は生きておりません。まだ幼い頃に、事故でこの世を去ってしまいました

彼の妻は夫と子供を失ったショックで仕事を辞め、どこかに行ってしまいました。その後の行方は誰も知りません

主よ、私は貴方様にもう何十年も仕えて参りました。俗世と離れ、慎ましくも穏やかな日々を過ごさせて頂いております

そして、今日ほど貴方様に仕えたことに感謝したことはありません!

ピアノの音がさらに大きくなる。


それでも、客人は起きようとしない。



それだからこそ、シスターは自分の想いを誤魔化すように鍵盤に指を叩きつける。

私の主人はずっと前に姿を消しました。私は家の宝である楽器すらすべて売り払って、ただ生きるために奔走しました

正直に言います。夫を恨みもしました憎みもしました。誰も助けてくれない中で絶望したこともあります

ですが、それでも私は夫を恨みきることができませんでした。心のどこかで、夫が変わらぬ笑顔で帰ってくるのを願っていたのです

そして、あの客人は教会に入ってきたとき、私とじっと目を合わせました。そして、こう言ってくださったんです

失礼ですがシスター、ピアノは弾けますかな?

この街に来ると、どうしても聞きたくなる曲があるんですよ。大事な、思い出の曲でしてね――――

あんな言葉を聞いたら……憎めるはずがないではありませんか!

主よ、私は今とっても幸せです!この巡りあいにとっても感謝しています!

あの人に最後に会わせてくださり……ありがとう……ございます

ピアノの音は教会を包み込んでいた。


シスターの震える声を隠すように

客人の旅立ちを盛大に祝うように



声のない讃美歌が、高らかに歌い上げた。

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