いつもと同じ放課後、皆が帰り始め、人もほとんどいない教室で俺は前の席へと向かっていた。





















遙斗

よお

……

久我が鞄に教科書を詰め込み、席を立った所で俺は奴に呼びかけた。

遙斗

今から帰りか?

ああ。
そうだけど

遙斗

そか…

……

何か用か?

遙斗

や、用って程じゃ
ねーんだけどさ

遙斗

……

……

そこまで言って言葉に詰まっていると久我は黙って俺の顔を見た。

俺はこいつに言わなければならないことがある。

遙斗

あのさ…

だけど、なかなか思い切りがつかなくて、それでもずっと黙って突っ立ってる訳にもいかず、俺は口を開いた。

遙斗

昨日のことなんだけど…






















遙斗

……

ふと気が付くと、俺は外灯の下にいた。
美緒先輩の家の近く、ずっと点いたり消えたりしていた、あの外灯だ。
だけど、その外灯は今は全く点滅してはいなかった。

フェリス

大丈夫ですか?

神父に声をかけられて、ふと我に返る。
ここは、あの暗くて古くさい、やたらと広い日本家屋ではなかった。

帰ってきた…
ようやく、そう思う。

だけど…


だけど、ここに美緒先輩はいない…

遙斗

っ…

佐上…

不意に路地にしゃがみ込んだ俺に久我が呼びかけてくる。

遙斗

先輩…

両手で握り締めた拳をアスファルトに押しつけ、俺は漏れそうになった声を押し殺した。

先輩を…美緒先輩を助けることができなかった。
俺に助けを求めていた先輩を…

遙斗

先輩…
美緒先輩…

地面に突っ伏し、美緒先輩の名前を呟く。
俺はいい加減な奴だったはずだし、自分で言うのも何だがお調子者だ。
だけど、次から次へと溢れ出してくる涙を止めることができなかった。

……

すぐ側に無言のままで久我が立っている。
その横にはたぶん、あの神父がいるだろう。
彼らが来なければ俺もきっと死んでいた。
だけど、今は放っておいて欲しい。

嫌という程、自分の無力さを思い知った。
どんなに気合いを入れようとも、意気込みだけでは何もできないのだと思い知らされた。

フェリス

彼女の魂は闇より
解放されました

頭上から神父の静かな声が聞こえてくる。

この人は…
この男は俺と違って無力ではなかった。
あんな馬鹿デカい蜘蛛の化け物に立ち向かう術を持っていた。

遙斗

何でだよ?

フェリス

……

遙斗

何で、もっと早くあの化け物を
倒してくれなかったんだよ?

それは場違いな八つ当たりだと、心のどこかでは解っていた。

遙斗

あんたがもっと早く、あの化け物
倒してたら、先輩が死ぬことも
なかったんだ!

おい、佐上!

顔を上げて怒鳴った俺を久我が止める。
こいつもこいつだ。
何か訳あり顔で、何か知ってそうな様子で…
きっとこの2人はあの蜘蛛のことを知っていた。
こいつらがもっと早く、あの大蜘蛛を何とかしてくれていれば…

遙斗

お前ら知ってたんだろっ!?

遙斗

なのに何でもっと早く、あいつを
倒さなかったんだ!?

……

ほとんど叫ぶように言った俺を久我が何とも言えない顔で見つめる。

その彼を庇うかのように神父が前に出た。

フェリス

私は全てのことを知っている
訳ではありません

フェリス

そして、全てのことに
力が及ぶ訳でもない

それは悲しむでもなく怒るでもない、あくまでも静かな声だった。

フェリス

私にできることは限られている。
私はそれを行うのみです

解ってる。
そんなことは解っている。

だけど、俺のこの気持ちは…
やりようのない想いは、いったいどこへ向ければいい?
それが、ただの自己中心だということは解っている。
けど…

フェリス

苦しみより解き放たれし
魂に於いては…

ポツリと静かな声で呟き、神父はそっと囁き始めた。

フェリス

主よ、死せる僕(しもべ)の
霊魂を憐れみ給え…

そう前置きするように言って、その唇が何かの言葉を紡いでいく。

フェリス

Kyrie eleison
Christe eleison
Kyrie eleison

どこかで聞いたような言葉だった。
確か学校の礼拝堂で半分寝ながら聞いていたミサの一節か何かだったか…

まるで静かな詩を口ずさむように語られる祈りの言葉。
それは死者に捧げられる読経のようにも思えて、俺はただ黙って聞いていた。

お経を読むのは葬式だよな…
ぼんやりと心の中で考える。

美緒先輩は、やはり死んだ。
そのことが酷く現実味を帯びて重みを持ってのしかかってくる。

彼女は…美緒先輩はもういない。

遙斗

っ…う…

声を殺して泣き出した俺の背を誰かがさすってくれていた。
たぶん、久我だろう。
奴は何か言うでなく、ただ俺の背をさすっては、時折軽くポンポンと叩く。
まるで元気づけようとしているかのように…

声を出すことができなかった。
何か言えば、きっと絶叫になる。
大声で泣いてしまうのが分かっている。

だから俺はただひたすら漏れそうになる声を抑えて泣いた。






















遙斗

なんつーか、その…
悪かったな

……

バツが悪そうに謝る俺を久我は黙ったままで見ていた。

遙斗

何て言うか、俺はお前と、
あの神父さんに助けて
もらった訳だし…

遙斗

なのに八つ当たり
なんかしちまって…

お前が悪い訳じゃない

言葉を選ぶようにして言うと久我が短くそう言った。

あんな事が起これば誰だって
混乱するし、自棄(やけ)にもなる

お前はまだ落ち着いている方だ

遙斗

…そうなのか

いつもと同じ不機嫌そうな様子だったが、そう語った久我は何か俺に気を遣っているように見えた。

こいつはいったい何を知っているんだろう。
俺と同じ年だというのに、あの化け物みたいな大蜘蛛の他にも何か、とんでもない相手と遭ってきたのだろうか。
それに、こいつと一緒にいたあの神父。
彼はただの神父ではない。
俺はあの人が真っ白な犬に変わるところを見たのだから…

遙斗

なあ、久我…

話す気はない

俺が聞くよりも先に奴はそう言った。

遙斗

あー、そう…

取り付く島もない程に素っ気なく言った久我に俺は口をつぐむ。
こいつのことだ。
たぶん、食い下がっても口を割るとは思えない。

遙斗

じゃあ、今はお前らのことを
聞くのは止めるから、これだけは
教えてくれないか?

……

遙斗

あれは何だったんだ?

遙斗

あの馬鹿デカい蜘蛛と
あの変な場所は?

あれは、この世の常
ならざるものだ

問いかけながらも、また冷たく返されるかと思ったが、意外にも久我は、すんなりと答えてきた。

オレ達が暮らしている、この世界とは
かけ離れた異形の者達…いわゆる
魔とか物の怪とか言われる者だ

あの広い日本家屋みたいな空間は
魔が作り上げた、現と虚構との狭間に
ある、いわば歪みのようなもの

あの魔が死んだから
あの場所はもうない

遙斗

……………

そんな馬鹿げた話があるだろうか。
あの体験をしていても尚、久我の言っている事は、えらく馬鹿らしい話に思えた。
けど、俺は見てしまった。だから否定できなかった。

普通に生きていれば、あんな目に
遭うことはまずない

例外は不運にも魔と関わりを
持ってしまった時…

魔を封じる結界に触れたり汚すか、
ごく稀に魔に気に入られた場合

そう語る久我はいつもの無口な奴と違って饒舌になっているように思えた。

人間が魔に気に入られる事はまずないけど
本当に稀に魔の気を引く人間がいる

おそらく彼女は、あの魔に見初められた。
お前が巻き込まれたのは、完全な
とばっちりだな

美緒先輩ならば、それもありそうな気がした。
それくらい彼女は魅力的だったから。

だけど…

遙斗

とばっちりじゃねぇよ

遙斗

俺は先輩と付き合って
たんだからな

自分で言ったのに胸が締め付けられそうになる。
俺は先輩を助けることができなかった。
それどころか、久我と奴の知り合いの神父が来なければ俺だって殺されていただろう。
それとも美緒先輩と一緒に殺される方が良かったのか。それは俺にも分からない。

……

安心しろ。
お前が魔に見初められることは
まずないだろう

遙斗

何か失礼な言い方だな、
おい?

人がへこんでるのに、久我の奴は、いけしゃあしゃあと、そんなことを言ってきた。

後は道端に奉られている祠(ほこら)とか
紙垂(しで)がかかった縄に近づいたり
しなければ大丈夫だ

紙垂(しで)っていうと、あれか。
よく神社の大木なんかに巻いてある縄なんかに付いている白い紙でできた雷マークみたいな奴のことか。
誰がそんな罰当たりなことをするか。

だから、もう
あんなことは起きない

遙斗

って、もしかして俺のことを
心配してくれてんのか?

誰がだ。
オレは本当のことを話しただけだ

一方的に言うだけ言うと、奴は鞄を持ち上げ俺に背を向けた。

遙斗

ちょっと待った!

遙斗

お近づきの印に駅前のプリンス
バーガーでも食いに行かね?

は?

遙斗

いや、これも何かの縁だし、
友達にならないか…なんて?

友達じゃなかったのか?

遙斗

へ…?
そうなのか

同じクラスだし、何度も会ってるし、
あれだけ話してたら友達だと思ってたが…

遙斗

だったら、改めて友達記念ってことでさ。
昨日の礼もしたいから奢らせてくれよ

礼をされるようなことじゃない

遙斗

まあまあ堅いこと言わないで。
何なら神父さんも一緒に誘ってさ

…いいけど、あいつは
ものすごく食うぞ

遙斗

……………

……

遙斗

まあ、お礼ということで…

まあ、お前がそう言うのなら

遙斗

んじゃ、行こうぜ

ちょっとフェリスに連絡入れるから

遙斗

おう

久我がスマホを取り出すのを見ながら俺はふと教室の天井を見上げた。

遙斗

……

先輩…

俺は先輩のことをすぐには吹っ切れそうにない。
今でも色々と先輩のことを考えてしまう。
だけど、短い間だったけど、俺は先輩と付き合えて本当に良かった。
先輩は笑顔の可愛い、最高に素敵な人だった。

フェリス、来るって。
駅前で待ち合わせってことにしたけど

遙斗

了解。
それじゃ行こうぜ

呼びかけてきた久我に答え、俺は片手を軽く上げる。
そして、奴の先に立つと颯爽と歩き出した。

それは、少し寂しい放課後のこと

facebook twitter
pagetop