加賀がそう言うのもわかる。
安全そうな体育館を出て、目的地はここと正反対の二階の奥。
どうして、理科室に行くの?
加賀がそう言うのもわかる。
安全そうな体育館を出て、目的地はここと正反対の二階の奥。
ああ、涼太……俺が一緒にいた奴と、第一理科室で落ち合う約束なんだ
ああ、ちょっと髪の長い
似たり寄ったりだろ。
それにアイツは……まあ、しかたないんだよ
加賀はなんだか納得行かない様子で唇を尖らせた。
仲良く一緒に脱出しようって?
っていうかさ、迎えに行こうとしてるんだろ?
確かにそうだ。
俺ひとりなら、化物から走り回って逃げてどこかの出口を探せば良い。
だが、多分涼太にそれを求めるのは酷だった。
あいつの生い立ちは複雑だ。
暴力的な父親と、子供を省みない母親。
小さい頃から涼太は細身で、それが栄養不足に寄るものでなかったとは言い切れない。
俺は、何かにつけて家に呼んでは飯を食わせ、風呂に入れ、時には強引に泊まらせたりしていたが、今ではそれも涼太にとってはありがた迷惑だったのではないかと気がついている。
涼太が俺の家から帰っていく姿は、いつも以上に消え入りそうだったし、泊めた翌日に痣を作っていた事もあった。
次第に涼太に声をかけなくなったのはそんな理由からだったが、数年前、涼太が突然家に来た事があった。
薄暗い、冬の日だったことは覚えている。
お、涼太!
久しぶりだな。寒いから入れよ!
家に来た事にも驚いたが、ぼんやりと立ち尽くしていた涼太の頭に、うっすらと雪が載っていた事にも驚いた。
どれだけ、ここに立ち尽くしていたのだろうか。
偶然、俺がドアを開けなければ、いつまで立ち尽くしていたのだろうか。
俺は、何に気付いたそぶりも見せずに、大きくドアを開けて涼太を招いた。
ううん。今日は、挨拶を、しようと思ってた、だけ。
挨拶?
うん。
僕、引っ越すからさ
は? 何だよ急に!
何もかもが急だった。
涼太は理由は言わず、ただ、世話になったと言い残して去っていった。
それが、俺が中二、涼太が中三の冬だ。
再会は俺が高一になろうとする春だった。
真夜中を過ぎた頃、スマホが着信を伝えたのだ。
しかも「公衆電話」と表示されている。
すぐに電話を切ろうと思った。だが、指先は通話のボタンを押していた。
……誰?
……
誰だよ。ったく
……
相手は沈黙を返すだけ。
俺は通話を切ろうと、体を動かした。
その時だった、ふと、本当にふと、名前が過ったのだ。
涼……太?
途端に、息を呑む音が聞こえ、すぐにしゃくり上げるような、嗚咽のようなものも聞こえた。
濁った呼吸音と声にならない声に、俺は勢い良く起き上がる。
この音は聞いた事がある。
涼太が、苦しみだす前の音。
落ち着け。
苦しいだろうけど、これだけ頑張れ。
いま、どこにいる?
掠れる声からなんとか居場所を聞き出し、俺は近くの公園に走った。
その時はまだ家にいた兄貴も叩き起こし、涼太を連れ帰って来たのだ。
町を去った涼太が、どうして。
それは、簡単な理由だった。
両親から、正確には父親から逃げて来たのだ。
春とはいえ、まだ夜は肌寒い。
それなのに薄いシャツと、スウェットのズボンだけを身につけ、涼太は電話ボックスの中で二枚の十円玉を握りしめてうずくまっていた。
殴られた痕も、額に負った火傷も痛々しかったが、何より。
血や唾液でないものでスウェットを汚され、シャツの端々にその痕跡を残したまま、俺と兄貴を見上げて言葉も無く泣いていたのが痛々しかった。
夜中だから直接家に来れなかったのだろう。それでも俺の電話番号を覚えていてくれてよかった。
翌日から高熱を出し、目が覚めると
涼太は言葉を無くしていた。
落ち着いてくると、家に帰ると主張したが、俺の両親も兄貴も揃ってそれを止めた。
兄貴が大学進学と同時に家を出る事になっていたと嘯いて、涼太を無理矢理兄貴の部屋に入れ、俺と同じ高校に通わせるように手筈を整え、そしてやっと先日涼太は父親の名前から解放された。
やっとなのだ。
やっと平穏な時間を過ごせる。
だからこそ、俺は一つだけ決めていた。
俺たちは、何もできなかった子供じゃない。
でも、何をすべきかはまだわからない。
だから。
俺は、涼太を安全な家に入れてやりたいだけなのだ。
きっとひとりでは帰れない。
涼太はストレスに弱く、今でも何かあると発作を起こす。
俺の家は涼太の家だ。
あの家に、つれて帰ってやらないと。
俺の沈黙をどう捉えたのか、加賀は
まあ、いいけどさ
そう言って、にやりと笑った。
涼太だっけ?
そいつを迎えにいきますか!