ロミオとジュリエットみたい、と彼女は言った。異国の物語に登場する男女の名前らしいが、生憎とこの国のことにすら疎い彼に異国のことがわかるはずもなく、首を傾げると、彼女は幼子に手習いを教えるかのような柔和な微笑みを浮かべて言い直した。

夕鶴(ゆうづる)

織姫と彦星みたい

 それなら知っている。七夕にまつわる伝説に登場する、年に一度だけ会うことを許された男と女の名前だ。織姫は機織りを、彦星は牛飼いの仕事をしていたが、二人はお互いのことに夢中になるあまり次第に仕事が疎かになっていく。それが天帝の怒りを買い、二人は天の川の両岸に引き離されてしまう。織姫も彦星も悲しみに暮れた。これを哀れんだ天帝は年に一度だけ二人が会うことを許した――――というのがあらましである。しかし、この日に雨が降ると天の川が氾濫してしまうため川を渡れず、二人は会うことができなくなる。この話を人伝いに聞いたとき、なんて哀しい物語だろうと子供ながらに胸を痛めたものだ。
 どうやら、その二人と自分達との境遇を重ねて彼女は例えたようだった。ひょっとすると、先程の『ロミオとジュリエット』も似た内容の物語なのかもしれない。残念ながら彼は文字が読めないので、機会があれば、彼女に聞かせてもらうとしよう。
 ともあれ、

七燈(ななひ)

俺達は一年に一回しか会えないわけじゃねーぞ?

夕鶴(ゆうづる)

そうですね


 腕の中で彼女が笑う。伝わる振動と息遣いがくすぐったい。

七燈(ななひ)

なんだよ。ちゃんと説明しろ

夕鶴(ゆうづる)

ふふ、ごめんなさい

 抱き寄せて首筋にじゃれつくと、彼女は首に回った彼の腕に両手を添えて軽く身をよじった。
 か弱い指先も、頼りない力も、儚い声音も、何もかも、彼女の全てが愛おしくて胸が膨らむ。
 彼女はひとしきり笑った後に、こう言った。

夕鶴(ゆうづる)

織姫と彦星は、お互いを深く愛しすぎたせいで務めを果たすことができずに咎められ、離れ離れになってしまった。ロミオとジュリエットは、敵同士の家に生まれながら恋に落ち、悲劇のままで幕を閉じた。そして、わたしとあなたは……

七燈(ななひ)

やめろ

 続く言葉を聞きたくなくて彼は彼女をきつく抱きしめた。まるで、母親に縋りつく子供のように彼女の肩口に顔を埋めて黙りこくる。

夕鶴(ゆうづる)

……

 彼女も彼の気持ちを察して無言になった。肩に凭れている彼の月光で染め抜いた色の髪を優しく撫でて慰める。

七燈(ななひ)

ああ、くそ

夕鶴(ゆうづる)

ままならないものですね……

 好きな人と添い遂げたい。ただ、それだけのことがどうしてこんなにも難しいのだろうか。
 想いは通じ合っているのに、誰よりも互いを深く愛しているというのに、周囲の理解は遠いところにある。
 それでも、祝福する声が全くないわけではないから、彼らはまだマシな方なのかもしれない。

夕鶴(ゆうづる)

織姫と彦星は、一年に一度だけ逢瀬を許された……でも、わたし達は会いたいときにいつでも会える。……いまは、まだ

 出会ってから毎日のように逢瀬を重ね、想いを育ててきた。それは互いを恋い慕う気持ちは本物なのだと周囲に知らしめる意味もあったが、ついに許されることはなかった。

夕鶴(ゆうづる)

ロミオとジュリエットは、逃亡の末に誤解から二人とも命を絶ってしまう……彼らは今生では結ばれることがなかった。わたし達は……

 彼女の指先に力が込められる。
 言葉がなくても想いは伝わってくる。
 同じ分だけ彼も彼女を抱きしめた。
 この先、何があっても決して放しはしないと頭上で瞬く星々に誓う。

七燈(ななひ)

誰に許されなくても……

夕鶴(ゆうづる)

どんな困難が待ち受けていようとも……

 胸の内を明かす代わりに彼らは夜が明けるまでずっと、ずっと寄り添っていた。

 二人でなら必ず乗り越えられると、信じていたのだ。

 頭上に垂れ込めていた鈍色の雲は、眼下で起こった悲劇に耐えかねてぽつり、ぽつりと雨を零し始めた。肌の上を滑るそれは風のように優しく、温もりすら感じられた。幾つもの染みが衣に描かれていく。やがて、雨足は強くなり、袖はしとどに濡れて重たくなった。
 それなのに、腕の中の彼女はどんどん軽くなっていった。血を流しすぎたせいか、あるいは肉体から彼女の魂が離れてしまったせいか、彼女の存在そのものが儚く消えかかっていた。

七燈(ななひ)

もう少しだ、もう少しだけ待ってくれっ……!

 祈りと共に彼女を腕に抱いて山奥の神域へと足を滑らせながら登っていく。
 そうして辿り着いた場所には、一本の古い樹が立っていた。

 古来からご神木として信仰を集めてきた大樹――――の一つである。いまは山全体が神として扱われているため存在を忘れ去られているが、山に棲む者達にとっては変わらず信仰の対象である。
 彼にとっては古い知人であり、悪友であり、祖父のような存在だった。

七燈(ななひ)

あんたも死に体かよ、老いぼれ

 大樹の表面は朽ちて皮が剥がれ、ところどころに空洞があった。以前に訪ねてきたときよりもずっと年老いて見える。もうじき、彼も逝くのだろう。彼女と同じように、一人だけ残して。

七燈(ななひ)

……頼みがある

 彼は静かに大樹の前に膝を折り、女を根の上に寝かせた。まだ温もりの僅かに残る身体から溢れる血液が、降り注ぐ雨と混ざり合って大樹の根に滲み込んでいく。

 しくしくと、しくしくと。

 耳に聞こえていたのは雨音だったのか、それとも大樹の悲しむ声だったのか。
 樹の根は祈りと憎悪で呪われ、腐っていく。

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