ヘイ、彼女

 青年は、ボーダーの水着を着用した、ショート髪の女性に言った。眼鏡をかけた地味な見た目とは対照的な、ナンパをするかのような口調。その異色な姿に、思わず女性も青年を見入る。

何?

ちょっと、話でもしない?

 一体、どんな意図があって自分を指名したのだろう。スタイルは良い方だと自負しているが、決して胸は大きくないし、髪も短く、どちらかと言えばナンパはされにくい見た目をしていると思っていた。実際、この海で泳ぐことにしか興味がなかった彼女は、それも予想して七月に髪を切った。

どうして?

 青年に聞くと、青年は同意も得ていないのに勝手に女性へと歩み寄る。まさか、体目当て? 考えただけでゾッとした女性だが、見た目ゆえにそれも考えられず、ただ彼を凝視した。

 青年は彼女から体一つ分の間を置き、堤防に寄りかかった。

暇そうだったから

 余計なお世話だ。青年の毒づいた言葉にイラッとする。

 しかし、実際に暇だったのは事実だ。女性も堤防に寄りかかって話し始める。

で? 何を話したいのよ

 夕暮れから夜に変わろうとしている空は、徐々にオレンジから青へ変わっていく。昼はあれ程空を飛び回っていたカモメもいなくなり、親子連れや恋人達のいなくなった海岸には、青年と女性の二人だけ。

 海好きな自分はさておき、こんな時間まで残っているくらいだ。彼にはどうしても伝えたい何かがあったのだろう。女性は、青年へと尋ねた。

お姉さんって、海好きそうだよね。ってか、好き?

ええ好きよ。海は危険も多いけど、綺麗だし広くて大きくてとても好き。波の気まぐれな感じも好きだし、砂のジリジリ焼けるのも好きよ。夏に来る人達、潮の香り、飛び立つカモメ、夏の海の雰囲気が大好きなの

へぇ。本当に好きなんだね。羨ましいや

海、嫌いなの?

 女性の問いに、青年は笑って頷いた。海が嫌いならば、何故海にいるのだろうか。彼の行動が不可思議でならない。

ねぇ。人魚姫とか、竜宮城とか、信じてる?

子供の頃はちょっと信じてたけど、今はね。貴方は信じてるの?

どうだろうね

 人に聞いておいて、自分ははぐらかすのか。ちゃんと答えなさいと言おうと口を開いたその時、青年が話し出す。

人魚姫ってさ、好きな人の為に頑張るのに、結局報われなくて亡くなっちゃってさ。乙姫は、竜宮城のトップとして部下こき使ってるって感じしない?

確かにそうね。そう思うと、対照的な二人なのね。人魚姫と、乙姫って

でもさ、それって本当に真実の話だと思う?

どうかしら?

 先程はぐらかされてしまったので、対抗して聞いてみる。すると、青年はこの時初めて女性に笑顔を見せた。

僕は、潮の香りが大っ嫌いなんだ

 次から次へと勝手に話を変える男だ。女性は呆れて青年を見る。知ってか知らずか、青年は盲目的に話をする。

潮の香りって、何だか気持ち悪くなってくるし、そもそも、海の青だって見るのも嫌なんだ。これなら、赤い太陽の方がよほどマシだ

相当嫌いなのね。私は毎日でも潮の香りを嗅いでいたいくらいなのに

海は綺麗って言うけど、僕は草花の方がよっぽど綺麗だと思うし、同じ青なら空を飛んでみたい

あら。草花だって、雨が降れば嫌な臭いがするわよ

そうなの?

 そうなの?

 彼の言葉に、違和感を覚えた。

 彼は、雨の日に外へ出たことが無いのだろうか? そう思えてしまう程、草露の臭いはポピュラーなことだと思っていた。それとも、そんな考えを持つ自分の方が珍しいのか? いや。幼き頃、女性は友人達と草露の話をしたものだ。あれが珍しいことだとは決して思わない。

ホントよ。もしかして知らなかったの? だっさーい

 女性は、冗談っぽく笑ってみせた。疑問を持ちながらも、あえて自分からは言わない女性に、青年は先程よりもくだけた笑顔を見せる。

ごめん。あんまり外、出たこと無いんだ

 この青年は、普通の青年とは何かが違う。女性は確信した。

あら、貴方ニートなの? だったら私にナンパなんかしてないで、さっさと働きなさい

いや、籠ってはいるけど、存分に働いてるって言うか……

あら内職? 若いのに勿体ないわ。もっと広い世界へ飛び立ちなさいよ

うーん。す、すみません……

 お姉さんも、自分とさほど年が変わらない気がするのだが。青年が思ったのは、ここだけの話。

……でも、出られないんだ

そうなの?

 そこから数分、二人の会話は止まった。と言うより、青年が止めたと言った方が正しいかもしれない。

 青年は好きなタイミングで言いたいことを話していたので、女性も、青年が話したくなるタイミングを待って、何も話さない。

 波が寄せて返す音だけが聞こえる。青かった空は、徐々に黒を混ぜていく。もうそんな時間か。経過していく時間が、彼とのタイムリミットを知らせているような気がして、少しだけ気が焦る。

お姉さん

なぁに?

僕の話、笑わないで聞いてくれる?

 青年の問いに、女性は無言で頷いた。青年は微笑むと、寄りかかっていた堤防から一度離れ、今度は海の方を向き、堤防に手をついた。女性も、青年に合わせるように、同じ体勢になる。

僕、本当は竜宮城に住む、人呼ぶ乙姫って存在なんだ

へぇ

って言っても、僕は男だし、正確には姫じゃないんだけどね。みんなそれで定着してるから、竜宮城でも上位に立つ人のことを、乙姫って呼ぶんだ

へぇ

でも、乙姫なんて、素敵なのは、貴方の世界の書物くらいの話でさ。あくる日もあくる日も、ずっと働かされるんだ

へぇ

海には遊ぶところなんて無いし、ずっと同じ香り。客。出来事。これじゃあ牢獄と変わりない。もう、ウンザリなんだ

へぇ

 端的な相槌を打つ女性。それが小気味よく、青年は秘めていた思いを口に出していた。それを笑うでもなく、否定するでもなく、女性はただ聞き続ける。

お姉さん、それでも、海が好き?

ねぇ。聞いても良いかしら?

 女性からの質問に、青年はどこか嬉しそうだ。こくこくと頷くと、女性は青年に尋ねる。

貴方が潮の香りが嫌いだとしたら、どうして私に話しかけに来たの? 誰よりも潮の香りがするであろう、私に

 青年は、面を喰らったかのように黙り込む。今まで青年に突き止めようとしなかった彼女が、続けて彼に言い放つ。

……もしかして、まだ、海が好きなんじゃない?

 女性の言葉に、青年は困ったように微笑んだ。だが、決して嫌では無い。そう捉えられる笑顔だ。

お姉さんには敵わないな

綺麗で、にぎやかで、広い海。好き?

本当に嫌い。嫌いだったんだよ。でもね

 そう言いかけたところで、青年は真っ直ぐと海を見つめる。

今日、竜宮城を抜け出して、この海岸を見に来たんだ。そしたら、そこには僕の知らない海の姿があって、砂浜や海で遊ぶ人の笑顔とか、鳥の鳴き声とか、透き通った海の色とか見たら、何だか急に海が好きになっている自分がいたんだ

その気持ちは正しいわ。海って、美しいんだもの

海が美しいってこと、みんなにも伝えたいな

そうね

 青年はしばし、暗くなった海を見つめながら考えていた。やがて、答えが決まると、その手を堤防から放す。

僕、帰るよ

……大丈夫? 抜け出したんでしょ?

うん。でも、初めから捕まるだろうって覚悟して来たから

そう

有難う、突然変なこと言い出したのに、付き合ってくれて

ううん

 じゃあねと、青年と手を振って別れた後も、女性は真っ暗な海を見つめていた。だが、ずっと話し込んでいたことで、体もすっかり冷え切った。

 大きくくしゃみをして顔を上げる。

 すると、女性は目の前の光景に驚いた。

 目の前、とは言っても海の先であるが、彼女の見つめた視線の先には、漁火(いさりび)の如く一本道に明りの灯った海があった。

 女性はその下へ急いで駆け寄り、明りの正体を確かめると改めて驚く。

 転々と灯っていた明りの正体は、数百匹と集った蛍達のものであったのだから。

蛍が海辺に、それもこんなに沢山……

 蛍は、海辺で光るウミホタルとは違う。川辺で飛んでいる虫だ。ゆえに、非現実じみたその美しさに、女性は呆然と海を見つめる。

 その間にも蛍達は増え続けた。暗がりの海は、夜空に浮かぶ天の川を思わせた。

 もしこれが本当に天の川だとすれば。願わくば、この海の下で働く彼等に、この海の美しさを見せてやってほしい。

 彼等の安泰を願うと、蛍達は彼女の願いを聞き届けたかのようにまばらに去って行った。

それじゃあ、また来年

 またここで、貴方と会えますように。

 そんな思いを込めて、女性は海から去って行った。

――海の奥底のどこかにあると言われる竜宮城。その城には、美味しい料理と、美しい踊りを見せる人々がいる。息つく間もない程忙しいその場所で、青年は今日も笑顔で働く。

 いつか見た、美しい海と、母なる海のような潮の香りの持つ、彼女に会う為に。

(了)

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