キミが夢を変えるまで
#5 キミが夢を決めた時
キミが夢を変えるまで
#5 キミが夢を決めた時
えっと、お風呂……上がったよ
あ、うん。紅茶入れたんだ。よかったら飲んで
ほんと、なにからなにまでありがとう、高矢くん
リビングのテーブルに向かい合って座る俺たち。
弓香はジャージ姿で、肩からタオルをかけている。
しっかり浸かったのだろう。ほんのり湯気が立っているような気がする。
俺は少し気まずくて、付けていたテレビに目を向ける。
ニュース番組だったが、まったく頭には入らなかった。
すごく今さらだが。
俺は、とても大胆なことをしているのではないだろうか。
高校生の、クラスメイトの女子を家にあげて、風呂に入れたのだ。
……普通に考えたら、やばいよな
正直、そんなこと考えている余裕はなかった。
当時の俺なら、絶対にできないことをしてしまった。
今さら仕方が無いし、エルゲストウィルスを殺すためだ。
そう。彼女を風呂に入れることに成功したということは。
エルゲストウィルスが死滅したということだ。
これで、今度こそ。
ウィルス感染者が死ぬところを見ずに済む。
弓香が、細菌学者を目指し、ワクチンを作る過程で最悪のウィルスを作ってしまうことも、テロに遭って死んでしまうことも、無くなるはずだ。
なのに……俺はまだ、未来の記憶を持っている
歴史がそこまで大きく変更されれば。
未来の俺は、過去の、今現在の俺と混ざり合い、未来の記憶を失うはずだ。
それがまだ起きないということは……。
『今入ったニュースです』
ん……?
ぼうっと顔だけ向けていたテレビに、意識が向く。
『○○県××市で、突然手足から血を吹きだし――』
はぁ、はぁ、はぁ
俺は慌ててテレビを消した。
た、高矢くん? どうしたの?
な、なんでもない。なんでもないよ
危なかった。
間違いない、今のはウィルス感染者が発症し、死亡したニュースだ。
歴史の強制力。
弓香が持っていたウィルスが誰かに移って発症しなくても。
どこかで、同じ事件が起き、ウィルスは広まってしまう。
そしてそのニュースを見て、弓香が細菌学者を目指してしまうかもしれない。
いや、きっと、目指すんだ
それが歴史の強制力なんだ。
俺の精神が、融合してしまわないのもそのためだ。
そもそも、どっちにしろウィルスが広まるなら、いつか発症する現場を目撃してしまうかもしれない。
せめてワクチンが作られるまで、弓香が目撃しなければ……。
無理だな。歴史の強制力がある限り、どんな偶然も起こりうると、俺はこのタイムリープで痛感した
ならば、どうすればいい?
どうすれば、完全に歴史を変えることができる?
考えろ。なにか、あるはずだ。
歴史の強制力にも負けない。絶対的ななにかが。
?
弓香を見る。
彼女は少し怪訝そうに、首を傾げている。
僅かにテレビに意識が向いているようにも見える。さっきのニュースが気になっているのかもしれない。
彼女がニュースを見れば、絶対に細菌学者を目指してしまう。将来の夢を定めてしまう。
将来の夢。……そうだ
……京森さん。ひとつ、質問してもいい?
うん? なにかな?
京森さんってさ、将来の夢とか、ある?
う~ん、夢かぁ。まだ決めたわけじゃないけど、こういうのがいいなぁって言うのは、あるよ
そうなの?!
え、そんなに驚くこと?
あ、ごめん
そういえば、弓香とそういう話をしたことがなかった。
細菌学者を目指す前は、どんな将来の夢を持っていたのか。
ただのクラスメイトからもっと親しい関係になるのは、その後だったから。
えっと、それ、聞いてもいい?
え~。ちょっと、恥ずかしい
そ、そこをなんとか
う~……。しょうがないなぁ。
お風呂とか乾燥機とか、いっぱいお世話になっちゃったからね。教えてあげる
ほんと?!
ありがとう!
なんかすごく嬉しそうだね?
……さっきも言ったけど、まだ決めたわけじゃないからね? ほら、決めちゃうと、もう曲げられないっていうか……
そうだろうな、と思う。
そして、決めていなかったからこそ、細菌学者という夢を定めてしまったのだ。
逆に言えば。
もともと持っていた、決めているわけではない夢を、今ここで定めてしまえば。
細菌学者の夢を持つことはない!!
歴史の強制力にも負けない、絶対的なもの。
それは弓香の、決めたことは絶対に曲げない、強い意志だ。
わたしが将来、できればこうなりたいなぁって思ってるのは……
お、思ってるのは……?
……お嫁さん、だよ
お、およめ、さん?
もう、だからあんまり言いたくなかったんだよ。子供っぽいでしょ?
そ、そんなことないよ。
でも、どうして?
なんでだろう。わたし今、母さんしかいないからかな。
あのね、うちの母さんすごくしっかりしてるっていうか。父さんが生きていた頃も……
あ! えっと、そのね、実はうち、父さんが中学の時に事故で……死んじゃってて
そう、なんだ……
そ、それでね。
わたしも、母さんみたいに、誰かを支えてあげられる、素敵なお嫁さんになりたいなって、小さい頃から思ってて
…………
あはは……やっぱり、子供っぽいよね。もっと、ちゃんとした夢を持たないとだよね
そんなことないよ!
俺はイスから立ち上がり、声をあげた。
た、高矢くん?
お嫁さん? 素晴らしい夢じゃないか!
それを将来の夢にするべきだよ、ゆっ……京森さん!
そうかな?
えっとじゃあさ、素敵なお嫁さんになるには、どういうことをしておけばいいと思う?
そうだな。
京森さん、料理できないよね?
うん……ってどうして今決めつけたの? 確かにできないけど!
あ、いやその、クラスの誰かが言ってた気がして。ほら、調理実習とかで!
う~、誰だろ。
でも、うん。わたし、料理はぜんぜんできないんだよね……。
普段、母さんが一人で全部やっちゃうから
それじゃダメだ。料理もできずに、素敵なお嫁さんにはなれないよ
う、確かに……!
そっか、そうだよね。練習しなきゃ
なんなら付き合うよ。
俺、簡単なのならできるんだ
ほんと?! 助かるよ!
もっとも、もっといい先生が身近にいるとは思うけど
あ、そっか。母さんに教わればいいんだ
うん。他にも色々、教えてもらえると思うよ
そうだね……。
そっか、高矢くんの言う通りだ。できること、いっぱいあるね
そうだよ。だから、さ。夢にしたらいいと思うよ。お嫁さん
夢……かぁ
弓香は一度、天井を見上げ、目を瞑る。
やがて――
……うん。決めた。わたし、決めたよ。
絶対に、素敵なお嫁さんになる!
あぁ……。
京森さんなら、なれるよ。絶対
弓香のその言葉を聞いた瞬間。
俺の意識が、ぼやけ始める。
自分の体の後ろから見ているような感覚と、逆に自分の体の奥底に入り込み、見えなくなってしまうような感覚が混ざり合う。
そうか、これが。未来の俺と、現在の俺が、融合するということか。
つまり……成功したんだ。
歴史を、変えたんだ
弓香が細菌学者を目指すことが無くなれば。
将来、凶悪なウィルスが作られることもなく。
俺も、精神交換機を作ることもなくなる。
つまり今、俺が『失敗』というキーワードを使わなければ。
このまま、精神交換機が作られない歴史が確定する。
いったい何度タイムリープしただろうか。
これで、世界はウィルスによって滅ぼされず。
弓香が、テロ爆破で死ぬこともない。
弓香……。
俺は……どうしても、キミを助けたくて……
……あれ?
どうしたの? 高矢くん
う、ううん? なんかちょっとぼうっとしちゃって。
弓香……あ、ごめん。
京森さんは、すごいな。そうやって、言い切れるんだもんな
わたしはちょっと、色々あってね。
あ、呼びにくかったら弓香でもいいよ?
う、えええ? いやそれは……その。
なんで俺、名前で呼んじゃったんだろ……?
『意識が融合した』
そんな言葉が頭を過ぎったが、すぐに忘れてしまった。
また机で寝てる。
もう、風邪ひくよ?
う……ん? あれ?
肩を揺すられ、俺はゆっくりと顔を上げる。
机に突っ伏して眠っていたようだ。おかげで体が痛い。
おはよう。まだ夜だけど。
はい、紅茶。コーヒーのがよかった?
ああ……。すまない。
いや、紅茶でいいよ、弓香
弓香が入れてくれた紅茶を受け取り、一口飲む。
すると、さっきまで見ていた夢がすうっと、溶けていってしまう。
あ……なんか、変な夢を見た気がするよ
夢? どんな?
思い出せないけど……昔のことだったような……いや、違う、もっと荒唐無稽な、世界を救うような夢だったかも
なにそれ? もうちょっと具体的に話してよ~
ごめんごめん。ああ、もう思い出せそうにないや。
……けど、逆に実際の昔のことを思い出したよ。弓香が、うちに風呂に入りに来た日
わ、なんで今それを思い出すのよ。
でもちょっと、懐かしいね
そうだな。……あの時、弓香は将来の夢を決めたんだよな
うん。素敵な、お嫁さんになるってね
どうだ? 夢は叶えられたか?
ふふ。それを決めるのは……あなたでしょ?
それもそうだな
俺は、妻の弓香に笑いかける。
弓香は素敵なお嫁さんだよ
あなたのおかげだよ。
……ありがとう。直基
「キミが夢を変えるまで」
了