ティンカーベル

空を、飛ぶのよ

 その少女はそう言った。
 屋上の手すりの向こうで手を広げ、微笑んで。
 何をするんだ、と動揺する俺に、楽しげに、歌うように。

雄哉

じゃあ、キミはティンカーベルか

ティンカーベル

随分詩的なのね。でも、それでいいわ。どうせ、名前なんて忘れられるんだもの


 彼女――ティンカーベルと呼ぶ――は少しだけ寂しそうに言うと青い空を見上げた。
 飛ぶには、確かにいい天気だろう。
 だが、飛ぶということは、つまり。

ティンカーベル

じゃあね


 まるでまた明日会う友達のようにティンカーベルは空を飛んだ。
 とん、と屋上の床を蹴り、青の中に身を投げ出す。

雄哉

馬鹿、やめろ――!


 伸ばした手は届かない。叫んだ声も届かない。
 俺の目の前で彼女の姿は掻き消えた。
 屋上から飛んだなら、助かりっこない。

雄哉

なんで……


 偶然だった。
 ただ、天気がいいから、屋上で暇を潰してから帰ろうかと思っただけだった。
 そこに、自殺志願者がいるなど、思ってもみなかった。

 大きな高校だ。
 顔も学年も知らない少女。自殺の事情なんて勿論知らない。
 それでも。

雄哉

助けたかった……


 目の前で死ぬなんて反則だ。
 ふざけんなと大きな声で叫びたかった。
 俺と話すくらいの余裕があるなら、死ぬんじゃねえよと罵りたかった。

 膝から崩れ落ちる。
 人の命の前に無力さを痛感する。
 何もできないのか、俺は。こうして嘆くことしかできないのか。

ノルン

――そうだね、容易くなんかないね


 ふと、屋上に人影があった。
 さっきまではなかった人影だ。
 しかもここの高校の生徒とは思いがたい少女だった。

 少女は歌うように言う。

ノルン

人一人の命を救うなんて、容易くなんてない。偽善じゃできない。それでも、キミはそれを望むの?

雄哉

お前は……誰だ?

ノルン

あたしはノルン……ってことにしておこうかな。時間をキミにあげることができる


 ノルンは軽い足取りで近づいてくると、俺の顔を覗き込んだ。

ノルン

菊池雄哉。キミにその覚悟はある?

雄哉

なんで俺の名前を……

ノルン

そんなの些細な問題だよ。いい、よく聞いて


 ノルンは真剣な眼差しで俺を見た。指を三本立てる。

ノルン

あたしがあげられるのは3日間を3回。それがギリギリのライン。その間に彼女を救えるというなら、あたしはキミに時間をあげる

雄哉

……は?

ノルン

わけわかんないって顔してる暇があったら返事。本当に彼女を助けるつもりはあるの?


 俺は反射的に頷いていた。
 そりゃ、助けられるなら助けたい。
 だが、もう彼女は死んでるんだ。そんなのどうやって――

ノルン

時刻は7月13日、15時37分。この今をもって契約は成立。これからキミは3日前――7月10日15時37分に戻る


 ノルンは淡々と言う。
 スマホも見ずによく時間がわかると思うが、それは些細な問題なんだろう。

ノルン

チャンスは3回。あたしは、キミに賭けた。彼女を、助けてください


 ノルンはそう言うと深々と頭を下げた。長い髪がはらりと垂れ下がり、思ったより彼女を大人びて見せる。
 そして、指をパチンと鳴らした。
 その音がやけに大きく聞こえ――それが、すべての始まりだった。

 俺はベッドの上にいた。
 無意識にスマホを見ると7月10日、15時37分。今日は日曜だ。

雄哉

夢だったのかな……


 屋上から飛び降りたティンカーベル。ノルンと名乗る少女の3回のチャンス。
 夢だとしたら嫌な夢だ。
 飛び降り自殺の夢なんて、夢見が悪い。

雄哉

……寝直そ


 部活もやってない。受験もまだ来年。やることと言ったらスマホのゲームくらい。
 友人も少ない。恋愛なんて経験ない。
 それなら寝てても大した問題はない。
 俺は蒸し暑い7月の空気の中、ごろりと転がった。

 これは、梅雨が明けるには少し早く、夏が始まるのはまだ早い、そんな中途半端な季節の三日間の物語。

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