風が三月の街を通り抜けて、たんぽぽのような彼女の髪を揺らした。空気は彼女の髪を五百年前の王女のヴェールのように丁寧に大切に持ち上げて、顕微鏡でしか見えないような僅かな綻びも許さずに、慎重に幽かに吹き流した。彼女の髪の一本一本が、丁度気圧の境目を可視化して、髪の生え際からその先端までが、当たり前の自然の中に当然の糸波として受け入れられた。まるで幼い子供が紐を振って喜ぶように、重力の波が滑らかに伝わって消えて行くのが見えた。透明な水の中を漂う無数の真空の層の代わりに、彼女の髪が光を吸い込んで一面の金剛石に変えて辺りに振り撒いた。柔らかく、温かく、優しかった。
それは思わず手を伸ばしたくなるような光景で、決して触れることの許されない光景だった。彼女の髪はほんの一瞬の間、ありとあらゆる絵画の頂点に立っていた。時間ですら彼女に傅いた。それは作為していないからこそ辿り着いた奇跡的な美の境地であり、彼女が全く気が付かなかったからこそ生まれた偶然の魔法だった。
僕と彼女は知り合いでも何でもない。歩道で一度擦れ違っただけだ。二度と会うことは無いだろう。彼女の視界に僕は映っていなかった。僕が一方的に彼女の髪に眼を奪われただけだ。僕は彼女の顔を覚えていない。見てもいなかった。彼女がどんな服を着ていたのかも覚えていない。彼女の凡その年齢すらも解らない。けれども彼女の髪だけが、春の日差しの中に隠された小さな棘のように僕の心を震わせる。思い出すつもりも無いのに。