第21話 この手を君は離さない
第21話 この手を君は離さない
芝を蹴り、壁を跳ね、クララの身体は高く飛んだ。
跳躍軌道の弧の頂点、一瞬の無重力で、クララは左肩からカプセルを、簒肉杯イスカラピーナを取り出す。
カプセルはきしゃん、と鳴って開く。
フチの刃が炎を照り返しぎらりと閃いたのを、ココアも、メルも確かに見た。
その輝きの鋭さが、二人の背をぞくりと冷やす。
おい、あれ……あの時の
ココアはかつての防衛戦を、そしてそこでのクララの戦いを思い出す。
巨大なクラブ型アーデルをいともたやすく斬って捌いた、あの左腕の異形。
ねえ、これ……あは、ひょっとして
退避したほうがよくないですか、ね?
引きつり笑いが入り混じったメルの提案に、誰が応える間も置かず。
はああああっ!
一直線に急降下したクララの、硬く尖らせた左の手刀が。
モル=グーヌの長い後頭部に、深く深く、突き刺さった。
よっしゃ、クララちゃん接敵成こ……!
思わず声をあげ、集合ポストの陰から飛び出したマチルダも、
クララちゃ……
……ん?
クララのただならぬ様子に、びくりと足を止める。
身悶えるモルグーヌの背にまたがったクララは、
ああああ!
振り落とされそうになりながら、喉の奥から吼え猛り、
あああああッ!
今しがた刻み込んだ傷を、尚も左手でむずと掴み、
ああああああァッ!
肉を引きちぎり、傷口を強引に拡げているのだ。
クララが左手を突き入れるたび、開きっぱなしのモル=グーヌの単眼が光り、か細い熱線を吐き出す。
芝や建物の壁に、不規則な直線の火が走り、黒く焦げ残る。
おい、ふざけんな、やめろ新入り!
こっちに飛び火してんぞ……うおっ!
ココアの声にクララは応じない。
びじゅる、びじゅると飛ぶ紫色の体液が、クララの肌を、顔を、汚らしく染めていく。
いつの間にか額で水滴になっていた汗が流れ、クララの目に染みてじわりと痛む。
フェーレスの頭ひとつ分ほども拡がったモル=グーヌの傷口。
熱線を生み出す内燃”器官”が存在するのか、開かれた肉の奥は、鼓動のようにどくり、どくりと赤い光を波打たせている。
そこを目がけて、クララは。
ああああああァッ!
イスカラピーナを握ったままの右手を、力いっぱいに、突き込んだ。
ごじゅり、と鈍い音が鳴る。
イスカラピーナが肉を喰らい口を閉じたのを確かめ、クララは右手を引き抜く。
勢いよく噴き出したひと際夥しい量の体液が、芝に貯まり、紫色の沼になる。
クララは身を翻し、モル=グーヌの背中を蹴って跳ぶ。
そして、体液の沼の外に降り立つや否や。
装嚼(プラエダ)ァ!
握りしめたカプセルを、左肩のシャッターにねじ込んだ。
クララちゃん……
あああ、もうっ!
これから何が起きるか、クララが何をするつもりかなど、マチルダでなくとも容易に想像できた。
それを止める術も、猶予も、自分たちが持ち得ないことも。
総員、退避! 対象と……
対象とクララ・キューダに近づくな!
退路は遮蔽物付近を確保、熱線の拡散に備えろ!
マチルダの指示が飛んだ次の瞬間、クララの左腕が、ぶくり、と不自然に膨張した。
ぎぃ……ッ!
モル=グーヌを睨みつけながら、クララは歯を食い縛り激痛を耐える。
肩から先はもはや腕の形を成さず、表面をぶくぶくと泡立たせ、収縮しながら、円筒に近い歪な球形に変わっていく。
だが。
形状変化を終えるより早く、モル=グーヌの単眼がクララを捉えた。
クララちゃん!
ダメ、間に合わない!
退避しろと言いながらも、マチルダはその場に残っていた。
逃げなさいっ! 離れなさいってば!
身を隠しつつ、マチルダはインカム越しに何度も叫ぶが、クララがそこから退く気配は微塵も無い。
体液が入り混じった鈍い紫の蒸気を口腔から漏らしながら、モル=グーヌは単眼の奥に熱と光を滾らす。
……逃げません
左腕から全身を侵す激痛にかすれた声で、クララは呟く。
自身の背丈ほども伸び、自身の肩幅ほども膨らみながら尚も蠢く左腕を、クララは右手で持ち上げるように支えて、ぐいと前に突き出すと。
同時にその先端の表皮が裂け、中から単眼がぎょるり、と生まれた。
クララちゃん、違う……違うよ!
今、少女の左腕が成す形は、今対峙しているアーデルの異形の頭部、まさにそのもの。
1メルテ径の巨大な眼球が、標的を捉える。
逃げませんッ!
叫ぶクララの激情を贄とするが如く、水晶体の奥に、青に近しい白の熱と光とを蓄え、束ねて。
逃げないって、
そういうことじゃない――ッ!
泣き叫ぶように、射ち放った。
照射の瞬間、あふれ出たフラッシュが、空と地上に白く走る。
モル=グーヌの眼球を貫いた白い凝集光は、その頭部を内側を焼き焦がす。
内燃器官を引火させて尚有り余るエネルギーで、敵の後頭部が膨らみ、至る所で弾けて穴を空け、表皮を瞬く間に炎で包む。
……ません……うっ……えぐ……ッ…
クララは時折、逆流する胃液を吐き捨てながら。
げぅ……っ。もう、逃げ……ません……っ
その狙いは標的から一度たりとも違えることなく。
逃げません……ッ!
勢いの衰えない凝集光を、執拗なまでに当て続ける。
敵はもう、皮膚も肉も焼き尽くされてとうに動かない、黒焦げの肉塊に変わっている。
クララちゃん……
荒れた芝の上を舞い散る煤と異臭に、マチルダは苦く顔をしかめる。
そういうことじゃ、ないんだよ……
確かな言葉にし難いそのもどかしさに、マチルダはひとり、目を伏せ、首を横に振る。
そんな彼女の姿に気付くこともなく、クララはまだ、残虐な閃光を吐き出し続けることを、止めようとはしなかった。
空を焦がし続けた光は、ゆっくりと萎んで消えた。
……ようやく、終わったか
集合住宅地を囲む、非常線の外。
哨戒班のトラックの荷台で、厚い灰色の雲を見上げていたココアが、ぽつりと呟く。
メルとココア、そして二次被害を避け退避していた哨戒班の兵士たちも、緊張にじっと押し黙ったまま、戦いの結末を遠巻きに見守っている。
やがて、雨が降り出した。
髪の隙間にじっとりと溜まっていくような、大粒の、重い雨。
マチルダさ~ん
じゃなくて、えっと、
β(ヴィタ)ユニットのお二人~
もういいだろ。こうなっちまったら、そんなの
どのみちあの化け物さまが、消し炭にしてくれて終わりさ
明るくとぼけるメルと、不機嫌さを隠そうともしないココア。
ほらほら、ココちゃん。そんなこと言わないで、仲良くしないと
応答してくださーい、状況どうですかー?
……お前、ルクスで一番神経太いよな。
尊敬するぜ
深々とため息を吐きながら、ココアがふと目をやると。
……ほら、戻ってきたぜ
クララを重そうに背負ったマチルダが、よろよろと歩き、住宅地から姿を見せた。
意識のないクララの、だらりと下がり脱力した左腕は、元の少女のそれの姿に戻っている。
疲れも、濡れた服も相まって、マチルダの歩みは重く遅い。
だが、ココアとメルは、哨戒班の兵士が彼女を助けに駆け寄っても、手を貸そうとはしなかった。
ごめんね。誰か、車
マチルダに短く低く言われ、哨戒班のひとりがその場を離れる。
マチルダさん。そいつ、大丈夫なのかよ
ココアが口にした問いは、クララを心配してのものではなかった。
それでも、すぐさま。
大丈夫なワケないでしょうがっ!
マチルダの一喝が、非常線を揺らした。
その剣幕に、ココアの毛耳は一度びくりと跳ね、やがてしゅんと折れてしまった。
……悪りぃ
ふてくされたような、しょげかえったような表情で、ココアはマチルダに背を向けた。
メル、あとよろしく
被害者のご遺族への説明が必要になったら、呼んで
言いながらマチルダは、ほろ付きの荷台の奥に腰を下ろし、クララを膝枕に寝かせる。
傍らに雑にかけてあったタオルで、顔の煤と涙の跡を拭ってやる。
はいな、了解
マチルダさん、無理しないでね
メルの気遣いの言葉に、マチルダは首を振る。
そして。
無理がかかってんのはこの子の方だよ
ちょっとはわかってやってよ、ねえ
訴えかけるように呟いた後。
口を噤んだままのメルの前で、降りしきる雨を遮るように、マチルダは幌布をさっと引いた。
目を覚ましたクララが、ここが照明の落ちた病室であると気づくのに、少しの時間が必要だった。
ああ、ごめん。眩しかったか
ベッドの傍らのマーメイが、クララの視線に気づき、ボードの映像をすっと落とす。
……
おかえりなさい
ん? あ、ああ
クララの第一声が自分をねぎらう言葉だったことに、少し不意を突かれたが、
ただいま
マーメイはぎこちなく微笑み、応えた。
早かったんですね、明後日まで遠征じゃ
……違うよ。お前が丸一日、寝てたんだ
えっ……
目を丸くしたクララの前で、マーメイは再びボードの映像を点け、共有モードの小さなホログラムを出力する。
映し出されたのは、マチルダやピクシーと議会の間で交わされる、住宅地戦闘の報告に絡んだメールのCC(カーボン・コピー)。
最新の、遺族対応手続きを始めた旨を書いたメールの日付は、確かにクララが戦った日より二日、進んでいる。
そうですか
沈んだ声のクララの前で、マーメイはボードを傍らの机に伏せる。
そして代わりに、蓋の開いたボトルを手にして、クララに飲むように促す。
両手で受け取り、ぐいと流し込む。スパーリングの後にいつも飲んでいたそれは、冷たすぎず、やわらかくクララの喉を潤す。
もう少し寝ていればいい
朝にはまた、次の作戦の……
マーメイは、言いかけた言葉を止めた。
まるで摂った水分で涙腺が開いたかのように、クララの瞳から、涙がこぼれたのだ。
また、ダメでした
眠って、目覚めて、遺族という単語を目の当たりにさせられて。
自分があの親子を救えなかったことを、クララは改めて実感させられた。
また……私は、
間に合わなかったんです……!
また一秒、足りなかった。
あと一秒、自分の手は、届かなかった。
助けを求めて伸ばしたあの親子の手を、あと一秒早く引いてやることができれば。
シーツの上でぎりと握りしめた拳に、涙が落ちる、その直前。
そっと乗せられたマーメイの手が、涙から、クララの手を守った。
マーメイ……さん
それでもまだ、戦うんでしょ
クララの瞳をじっと見つめて、マーメイは問いかけた。
溜まった涙の粒が大きくなったのを見かねて、マーメイはとうとう、クララの小さな頭を肩に抱き寄せた。
仕方なかったと慰めるわけにいかない。
次で取り返せなどと叱咤するつもりもない。
どう言葉を紡いでも取り返しのつかないものがあるなら、心のありかを確かめること。
マーメイは、自分に出来ることがただそれだけだと知っていて、
……はい……
はい……っ!
クララもまた、今はその決意を貫くほかないのだと、痛いほどに、わかっているのだ。
肩で思い切り泣きじゃくるクララの髪を、時折なでてやりながら。
薄く薄く白み始めた遠い東の地平を、マーメイはずっと見つめていた。