タバコの自動販売機前の灰皿に股間を押し当てながら喚いているちょっとアレなおっさんを横目に、あたしはミスドに入った。入る前からミントと白のストライプのワイシャツに革のジャケット、銀色にキラキラのカチューシャを着けたクロシェはよく目立つ。すでにドーナツを二、三個食い散らかしたような顔をしている。
長いこと友達だと思ってた相手であっても、案外と知らなかった事実ってありますよね? あると思います――あると! 思い! ますっ!
タバコの自動販売機前の灰皿に股間を押し当てながら喚いているちょっとアレなおっさんを横目に、あたしはミスドに入った。入る前からミントと白のストライプのワイシャツに革のジャケット、銀色にキラキラのカチューシャを着けたクロシェはよく目立つ。すでにドーナツを二、三個食い散らかしたような顔をしている。
いやあご明察だよ。でもこれからまた追加で食べるから正解とも不正解とも言えませんよイヒヒッ
そういうとあたしの横に並んでドーナツを物色し始めた。人の持ったトレイに自分のドーナツを載せてくる。この野郎、と思ったがレジではいち早く自分の財布から千円札を出した。こいつ成長してやがる。
で、思い出した?
二人分のコーヒーを持って席につくと、先に到着していたドーナツがすでに数を減らしている。
ミミミんもわかってないなぁ、そうそう簡単に思い出せたらわざわざ呼び出さないってばよ
だからさっきも書いたでしょ、一日の行動を思い出せ、って
朝家を出て病院にいって、本屋に寄ってうちに帰ってきた。以上!
その合間合間になんかいろいろありそうだね
いろいろ、って?
途中でネコを見つけて追いかけていったらひとんちの庭で変な花を見つけて、スマホ打ちながら歩いてたら車に轢かれかけたんだけど百円玉拾う、みたいな
クロシェは感心した顔をして左手で握手を求め、右手で食いかけのドーナツを差し出してきた。要らねえっての。
途中でネコを見つけて追いかけていったらひとんちの家の壁でトカゲを見つけて、すげーってスマホで写真を取ろうと思ったらバイクに撥ねられかけたんだけど特に何も拾わなかった。すげえ! だいたい合ってる!
で、それはいつといつの間の話なの?
うちを出て病院に行く間。ほら、なんか真っ赤な家あるじゃん! なんか漫画家のおじいちゃんの家。向かいの家に訴えられた!
じゃあ、そこは違うじゃないよ、だって、病院はちゃんと診察を受けてきたんでしょ?
あ、それはそうだ
ちゃんとお金払ったんでしょ?
払った払った
保険証は受け取った?
うん?
クロシェはまだ口の中に残っているらしいドーナツを嚥下すべくコーヒーを口に含んだ。ムウムウ唸りながら記憶の糸を辿っている。
受け取っ、た
間違いない?――まぁ、だいたいは受付で診察券と保険証は返してくれるけど
そう、そうそれだよ。診察券はあるの
クロシェは財布に詰まったレシートの束から「がごぜクリニック」と書かれた水色のカードを引き抜いた。
あんたね、レシートは、捨てるかなんかしなさいよ
ぼやきながらなんとなく診察券を受け取る。ひょい、と見ると「日下デボゲレアクロシェンモ・ヤマダ」とある。面から手書きの文字が零れ落ちそうだ。
うん?
ん?
あたしがきょとんとしたので、クロシェも目を点にしてこちらを見る。
ん?
んん?
なにか手がかりが見つかりましたか、ミミミ先生
……あんた、この『ヤマダ』ってなにさ
え、私の名前だよ
『ヤマダ』って苗字?
ああ、違う違う。ママが日本国籍なんだから日本らしい名前を、ってアタシにつけてくれたのよ
ヤマダって、苗字やんけ!
そうなのよ。うちは昔からママが何でも決めちゃうからね、パパが変だって気づいた時にはおじいちゃんが区役所に出生届を持ってっちゃってたんだよね
じゃあその、これ、デボゲレアクロシェンモ・ヤマダが名前。ファーストネーム
そう。クサカ、がファミリーネーム。書きやすくて助かるよねー、これ
知らなかった! あんたとは随分長い付き合いな気がしたけど知らなかった!
じゃあついでに、ママの名前はゴーンムト、パパの名前はチカオ。ゴーンムトは母方の実家の言葉で『長老の森で一番古い樹木の耳に響く霊の声に生かされる』って意味。パパは周夫。周りにいる夫って書いてチカオだよ! 覚えてね!
カタカナで五文字しか無いのにそんなに意味が圧縮されてるの!?
とかなんとかいう会話がしばらく続いたのであるが、とても埒が明かない。お察しのとおりです。しかたない、実際に歩いてみるしかない。保健証は家族三人で一枚のカードを使い回すシステムだとかで、
無いとママに何を食わされるかわからない
と本人は殊勝に身を縮めて震えるもので。
クロシェの家から左手にずっと行くと丁字路で、一方は行き止まりになっている。行き止まりには件の真っ赤な家があり、向かいにはその真っ赤な家を訴えたという妙に花だらけの家がある。ほほう、こっちの家だってずいぶん美意識が高い系なんじゃん。
で、そこの隅っこでネコを見つけて、ここの隙間をずーっと
完全に私有地やん!
仕方ない、乗りかかった船だ、人の家のブロック塀と庭木の間をずーっと行くとまた道路に出る。陽の差さない路地を歩くと個人経営の小さな売店が見える。なるほど。頭のなかで地図がつながった。ここに出るということは、そこのポストを曲がるとがごぜクリニックだ。がごぜ、妙な名前だとは思っていたが、院長・元興寺利幸とある。なるほど、これでがごぜと読むのかしらん。
がごぜクリニックから駅前商店街の本屋までは道なりに直線。
あ
何よ?
トカゲのいた家を通り過ぎちゃったんだけど、もういいかな?
お前はまじめに探す気があるのかッ!
とは言えど、百メートルほど戻ったところで何が出てくるわけでなし。
あ
何よ?
落ちてたんでここに掛けておいたボタンが無くなってる
なに、そんなことしてたの?
うん、三日くらい前だったかな。ジッパーに入れて『釦オチテマシタ』って書いて貼っておいたの
じゃあ、持ち主がちゃんと拾ってったのかもね
あ
うん?
下ばっかり見てないで、『保健証オチテマシタ』って張り紙を探したほうがよくないかな?
結局書店までの道のりには何もなく、書店員に聞いても届けはなく、残りの道のりはクロシェの家までのUターンだ。
保健証って失くすとどうなるの? 罰金とか払ったりする?
いや、そういうのこそ調べたら判ると思うけど、再発行料とか取られるんじゃないかなぁ
うわぁ面倒くさい。お金はどうでもいいけど再発行とか面倒くさい。パパがいないからすべての手続はみーんな週末。あーあー
で、さっき本屋から電話があってね
クロシェと別れてまもなくだ。自分の家に帰り着くやいなや携帯に電話がある。
どっかのお客さんが買っていったマンガに私の保健証が挟んであったらしいんだよねえ
つまりそれってどういうこと? あんたが本屋で立ち読みしてて、あとで読む気になってしおり代わりに挟んだとか?
いや、知らんけど
知らんけど、ってアンタがやったんやろがい!
本人が目の前にいれば容赦なくツッコミを入れているところだが、仕方なく電話を握る手に力が籠もる。
あ、そうなっちゃいますか
ごめんね、と屈託なく笑ったかと思いきや、電話線の奥の空気が不意に固まったのが判った。
ちょっと待ってママ! なにその真っ黒で足のいっぱい生えた――無理無理無理! そんなの食べられなアァッ!
あたしは通話を切る。
さて、なんか食べよう。