そんな事件があって、数日が過ぎた。

真夏はいつものように出勤して、いつものようにコーヒーを淹れ、それから自分の席に戻って書類に向かう。

刑事の基本はデスクワーク。
日常的に尾行したり張り込みしたり、まして銃撃戦をしたりカーチェイスしたりしているわけではない。そんなものは、ドラマの中だけなのである。

真夏が昨日あった万引きの報告書を書いていると、

デスクの電話が鳴り、真夏は受話器に手を伸ばした。

電話を置くと真夏は立ち上がり、急ぎ足で矢代のデスクに向かった。

電話の内容を伝えると、矢代は見ているのかいないのかわからない書類から顔を上げた。

ぼそっと声を上げたのは日野だった。矢代がそちらを向いたので、真夏も彼を振り返る。

『タバコ』――その言葉に、真夏は既視感を覚えていた。それが何かを思い出そうとすれば、若い女性の声が今の日野の声にピタリと重なった。

真夏は思わず声を上げかけた。だが、矢代と日野の視線を感じて、真夏は慌てて軽く首を振った。ここで言うべきことではないだろう。

名を呼ばれて、日野が渋い声を上げる。相変わらずの日野の様子に真夏は苦笑したが、矢代は慣れた様子で淡々と聞き返した。

　短い会話の応酬の後に黙って日野が立ち上がる。
　矢代から日野の扱いもひとつ学んだ真夏だった。

　

被害者の名前は池本秀一。
二十九歳で大手の銀行に勤めている。
真面目で誠実な人柄だが、かといって融通が利かない型物ではなく砕けた一面もあり、上司、同僚、後輩、誰からも評判は上々である。

実家は地方で、こちらの大学に通う弟、池本健太と二人暮らし。兄の秀一が倒れたときは旅行中だったが、報せを聞いて急きょ帰宅していた。

日野は答えなかったが、とくに反対もされなかったので、真夏は車へと向かった。

ちなみに、仕事だからと言ってなんでもパトカーでサイレンを鳴らして急行するわけではない。特に緊急というわけではないので、見た目は普通の車と変わらない覆面に乗り込み、被害者の住所を確認してハンドルを切る。

大体の方角はわかっても、移動してきたばかりの真夏はこの辺りの地理にまだ曖昧なところが多い。

新しい車ならカーナビがついていたりするのだが、生憎今乗っている車にはそんな便利なものはなかった。

ぶつぶつ言いながら、日野が地図を開く。日野もよく道を知らないようだ。真夏が車を止めて地図を覗きこもうとすると、日野が手を振ってそれを止めた。

ありがたく言葉に甘えた真夏だったが、途中でそれが間違いだったことを知ることになる。

日野は案内が下手だった。

同じところをぐるぐる回る羽目になり、随分時間をロスしてしまった。
先輩に案内を任せてしまうと、違うような気がしても中々言い出せないのが困りものである。

署を出て三十分、ようやく池本兄弟の住むマンションに辿りつき、真夏は大きなため息をついた。

他愛ない会話をしながら、真夏はエントランスのインターホンで池本の部屋番号を押した。

淡々とした返事の後に、エントランスの自動ドアが音を立てて開いた。

池本の部屋は十階で、エレベーターを使って昇り、玄関のインターホンを押すとすぐにドアが開いた。

真夏が警察手帳を出し、名乗る。

池本健太は、金髪にピアス、パーカーといういでたちをしていた。真夏は被害者を写真でしか見ていないが、見るからに真面目そうな兄秀一とはお世辞にも似ているとは言えない風体だ。

真夏は健太に、ここに話にきた経緯をかいつまんで説明した。

健太は驚いたようなリアクションを見せた後、手を顎に当てて俯いた。

それからも二、三質問をしたが、結局これはという話は聞けず、真夏と日野はマンションを出た。

助手席に乗り込みながら、日野が物騒なことを言う。

確かに弟の健太は、不良とまではいかずとも、いわゆるチャラ男という見てくれだった。彼の話から、かなり夜遊びしているのも想像がつく。

昔は兄弟が欲しいとよく思ったものだが、日野が顔をしかめるのを見て、一人っ子で良かったのかもしれないと真夏は思った。