僕はいつお客様がやってきてもいいように、グラスを綺麗に磨いていた。


 もっとも、それ以外にやることはないので、もう十分すぎるくらいピカピカだ。



 本当は以前ここに来たお客様からいただいた、パチンコなるものを楽しみたいとも思っているのだが、騒がしいのを嫌う水実の機嫌を損ねるので、二度と遊べることはないだろう。


 静かな遊び道具を置いていってくれるお客様が来るのを待つしかないようだ。

水実

結局、あの小説の続きは分からず終いね

 水実はそう言うと、小さくため息を付いた。


 彼女はいつも通りカウンターに頬杖をついて、目の前にあるグラスの淵を指でなぞっている。

水樹

今後の美由様の人生こそが、あの小説の続きなんだよきっと

水実

あら、なかなか面白い趣向だこと

 僕なりにお洒落な回答を見繕ったのだが、水実は少し小馬鹿にしたような物言いで返した。



 水実はグラスを手に持ち、軽く中の氷を転がせてから中に入っている紅茶に口をつけた。

水実

相変わらず安っぽい味だわ

 水実はそう言う割に、美由様からいただいた紅茶を度々僕に注文する。


 どうやら意外と気に入っているらしい。

水樹

この紅茶の価値は、冬弥様と美由様にしかわからないんじゃないかな

水実

そういうものかしら

 水実は少しだけ微笑みながら、手に持ったグラスを眺めた。


 中に入った紅茶を透かして見ることで、冬弥様と美由様の優しい思い出を眺めようとしているように見えた。



 このバーに置いてあるあらゆる物の一つ一つが、ここを訪れた人々の思い出の品なのだが、僕らにとってはただの『物』でしかない。



 それでも、お客様と僅かにでも接してきた僕らにだって、物に宿る思いを共有してみたくなるわけで……。

水実

なぁんてこと考えてるんじゃないかしら、水樹?
やめておきなさいな。
他人の気持ちに深入りしたら、冷静な判断なんてできないわよ。
あなた、客に情がうつる傾向があるから

水樹

ふふ、それは水実の方じゃないか

 僕は磨いたグラスを後ろの棚に戻しながら、水実には聞こえない小さな声で言った。



 水実は冷たい態度こそ取るが、人一倍情に脆い。


 まるで自分に言い聞かせているみたいだ。



 不意にギイっという音が響く。


 これはバーの入口が開いた時の音だ。

水実

水樹。
お客さんよ

水樹

うん。
わかってるよ水実

 バーの入口を見ると、お世辞にも綺麗とは言えない……いや、とても汚れてボロボロのコートを着た、六十代程の男性が立っていた。


 これまでのお客様と同様、状況を理解できない様子で店内をキョロキョロと見渡している。



 長いこと剃っていないであろう伸びきった髭からは、どことなく他人との関わりを感じさせない印象を与えるのだが、この方にも身代わりになりたいと願う大事な人がいるのだろう。



 そんなことを考えていたが、色々と詮索する前にお客様のお出迎えをするのが先決なのだ。


 僕は少し深呼吸をして、いつものように笑顔をきっちりと作ってから言った。

水樹

いらっしゃいませ。
バー・アルケスティスへようこそ

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