窓から差し込む柔らかな日差しに、俺は目を覚ました。床に転がるように眠っていた俺は体を起こし、しばしぼーとする。

草ケ部 蒼汰

…………

 自分の部屋を何の意味もなく見渡した後、何も考えずに床を見つめる。

 寝起きの思考というのはどうも鈍い。昨日あった恐怖でさえ、思い出すのが難しいくらいだ。だけど、そういうのは一時的なものだってことは言わずもがなのこと。必ず忘れることはない。

草ケ部 蒼汰

…………

 徐々に恐怖の一端を思い出した。扉から覗かれ、家の周りを叩かれ続けたあの音や狂気が目や耳にまだこびり付いている。

 開口一番に出てきたのは彼女の名前だった。

草ケ部 蒼汰

稲荷……いるのか?

 返ってくるのは静寂のみ。俺の横で寄り添い、安心させてくれた彼女の姿は、どこにも見当たらない。布団の中、ベッド下、タンス、探せる場所を探したが、彼女の姿は見当たらなかった。

草ケ部 蒼汰

稲荷……?

 彼女がいない、たったそれだけで言いようのない不安に襲われた。なぜかは見当がつかない。あれだけ俺が世話を焼いていたにも関わらず、何も言わないで消えられるのは困る。少しは何か言って行って欲しいものだ。

 でも、逆にすっきりしたんじゃないだろうか? 彼女がいなくなれば俺のやる気も戻ってくるし、余計な言葉も聞かんで済むし、怪奇現象起こされずに済むし、一石三鳥とはこのことだ。

草ケ部 蒼汰

…………

 だけど、いくらメリットになることを考えてみても彼女がいないという事実が俺の心にぽっかりと穴を空けた。悲しくはない。だけど、この吹き抜けていくような感覚を表現するなら……。

草ケ部 蒼汰

孤独……

 いつも口やかましく言っていた戯言がいざ消えてみると物足りない。嫌って程にからかわれたが、それも無くなるとつまらない。

 とどのつまり、今回に関しては彼女は俺にとってなくてはならない存在だった。もしものことがあったら、自分で乗り切る自信がない。今なら自信を持って言えそうだ。

稲荷

おはよー主、良く寝たのう!

草ケ部 蒼汰

えっ……?

まるで何もなかったかのように天井から頭を出して笑顔を見せる稲荷。俺は引きつった表情でその天井を見上げるしかなかった。

稲荷

なんだその呆けた面は

草ケ部 蒼汰

い、いや……なんでも

 さっきまで必死になっていた自分が憎い。こいつが簡単に消えるはずがない。なんせ神様であり、曲がりなりにも世話になっている者にも消える前には何か言うはずだ。

 それにしても、朝だと言うのにどっと疲れが出た気がした。余計な心配を掛けさせやがって……。

 俺はそれ以上何も言わず、部屋から出て行く。

稲荷

あ、おーい……どこに行くのだ?

 背後から首を傾げて彼女が俺を呼ぶ気がしたが、構わず階段を下りた。

草ケ部 蒼汰

恥ずかしい……恥ずかしい……恥ずかしい!!

 内心そう呟きながら、二階の階段を下りる。階段を下りた先の玄関にある物が視界に入った。それは落ちていたというより、置いてあったの間違いかもしれない。

 真っ白な封筒が歪みなく、きちんとした位置で扉前に置いてあった。昨日はそんな物見かけなかったはずなのに、だ。

 真綿で首を締めるとはまさにこのことだろうか。犯人は自分がいつでもこの家に侵入できることをアピールしてきている。俺はそんな考察した。

 これが本当だったら気が狂いそうになる。これは言わば、俺に安心して居られる場所なんて存在しないと訴えかけられている気がしてならないのだ。

草ケ部 蒼汰

…………

 俺は拾うかどうかの答えを迷いながらも、足はその封筒の方へと向かった。その時の自分の気持ちなんてよく分からない。一つ言えることは、これを見るのと見ないのとでは後で全然違うこと。

 結果的に良くも悪くも、これを見る事で何か分かるかもしれない。そんな淡い希望を持ってその封筒を手に取った。

草ケ部 蒼汰

宛先、宛名は書いてないか……

 封筒は糊で封はされておらず、手で簡単に開けられた。入り口を開け、中身を覗くと一枚の手紙が三つ折りにして入れられていた。それ以外は何もないようだ。

 俺は封筒を逆さにして、出てきた中身を取り出す。そして、三つ折りになった紙をそのまま開き、中の内容を確認する。

草ケ部 蒼汰

…………

稲荷

どうした? 主よ

 いつの間にか後ろに稲荷がいた。宙を漂い、俺の肩越しから手紙の内容をひょっこりと覗く。

稲荷

白紙……?

 彼女の言う通りこの手紙には何も書いていなかった。相手が何のために用意したのか、その目的も未だ分からない。ただ、不気味さがこの手紙から漂ってくるのだけは分かる。

草ケ部 蒼汰

この手紙が玄関に置いてあったんだ

稲荷

恐らく昨晩の奴だろう。内容がないとは不自然だが……

 どの道気を付けた方が良い。相手がどんなことをしてくるか分からない以上、こっちもそれなりの準備を整えておく必要がある。

草ケ部 蒼汰

とりあえず学校の支度をしよう。このまま家にいても危ないってことが分かった

 それに、これは俺一人で解決できるような問題ではない。いよいよともなれば、俺の命も関わってくる。いや、既に関わっているか。帰りを尾行されるわ、家を特定されるわで下手をしたら後ろから刺されるかもしれない。

 万全を期して、対策を練らくちゃいけない。まずそのためには……。

 いつも気だるい爽やかな朝、俺は普通に教室に入り、荷物を机の中に入れていた。先日仕掛けた誘導作戦はちゃんと成功しているようで、他の生徒からは度々視線を感じている。

 疑いや悪意の視線というのはこうも簡単に人に向くのかと思うくらい順調だ。

 これも全て、俺が孤立して動きやすくなるための手段だ。

 友原は表面上、例の作戦以降俺とは敵対している設定でここで話すことはできない。神薙も元々携帯でのやり取りを約束させいるため、話せない。ここで唯一喋る相手として自然なのが、國澤だ。

草ケ部 蒼汰

うまくコンタクトを取れると良いんだけど……

 相変わらず視線を下に向けている彼女を見て俺は心の中で呟いた。國澤から何か聞けるだけでも良い。それだけでもまだこれだけのリスクを負った価値がある。

國澤 真奈美

…………

 学校の昼食時、俺はある人物に声を掛けていた。

國澤 真奈美

なに?

 彼女、國澤 真奈美だ。自分の身に何か起きる前に彼女に事件の真相がどうしても聞きたかった。窓際に座る彼女に、真正面に立って話す。

草ケ部 蒼汰

君と昼飯が食べたいんだ

 彼女は前回ほど早く俺の頼みを断りはしなかった。ちゃんと考える素振りを見せ、真剣に迷ってるようだった。

國澤 真奈美

嫌……

草ケ部 蒼汰

じゃあ、話を聞くだけでも

國澤 真奈美

……嫌

草ケ部 蒼汰

君を責めるわけじゃないよ、だから話だけでも

 どんなに頼んでも、彼女はそれをノーと言い切る。そんな彼女の言葉に抗いながら、俺はひたすら頼み込む。前回のヘイトスピーチで疑いを俺に向けることで彼女と俺はある意味同じ立場になった。というよりは、むしろ今では彼女の方が立場は良いかもしれない。

 それなのに、彼女はそれでも俺と会話をする意思を示さない。人は自分より劣っている人間を無意識に探してしまう。それは、安心という快楽を味わいたいがためだ。俺の見立てでは彼女はこの会話に参加する、そう思っていた。

 だが、この女は何も言わない。何を頑なにそう拒んでいるのかが分からなかった。

國澤 真奈美

…………

 國澤は首を黙って横に振った。
 その瞬間だった。

ガチャンッ!!

女子生徒

きゃあぁぁ!!

男子生徒

おい、何してんだよ!!

 クラス内から悲鳴が上がった。何があったのかきょとんとして周りを見渡すと、皆の視線が俺へと集中していた。なぜそんなに俺を見るのかよく分からない。クラスの殆どが顔を強張らせ、怯えた目で見てくる。

 そういえば、左手に違和感を感じる。何かが伝っている感覚、そして妙に痺れた感覚。何か嫌な予感がした。ゆっくりと視線をそこへと移すと、我が目を疑った。

草ケ部 蒼汰

マジかよ……

 俺の左手はすぐ横に設置されていたすりガラスへと肘まで突っ込んでいた。突っ込んだ際に左手と腕の各所を怪我したらしい。傷口から小川のように血が流れ出る。

草ケ部 蒼汰

いや……これは……!

 言っても無駄だということは分かる。だけど、本当に意識なんてしてなかった。だって、こんな事したって俺に何の得もないからだ。

 俺は視線を急いで國澤へと向けた。

國澤 真奈美

…………ッ!!

 視線を合わせるなり、彼女は怯えた表情でこっちを見る。当然と言えば当然だが、どうにか仲良く話したかった俺にとってはショックだった。

男子生徒

おい、誰か先生呼んで来い! 

 自分でも何をしているか分からなかった。思考は停止し、意識が遠のいていく気がする。一部の生徒を除き、他のクラスメイトがこの現状を呆然と見つめている。今の騒動を聞きつけたのか、廊下には沢山の野次馬が寄ってたかって血まみれの腕を見ているのがガラス越しから分かった。

 ポタッ、ポタッと血の一滴いってきが床に溜まり小さな水たまりを作っていく。腕にはガラスの細かな破片が各部分に突き刺さっていることから、たぶんそこから流れ出ているのだろう。というより、流れている。

 肉を抉る曇ったガラスを眺め、俺の痛覚はようやく仕事を始め出した。腕全体に負った傷からは鋭い痛みが徐々に身を侵食する。

草ケ部 蒼汰

…………ッ!!

 あまりの激痛に俺は悶えた。何でこんなことをしたのか俺でもさっぱり分からない。

 南方が来たのはこの十分後だった。

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