最終話

催花雨。






















雨が降る。

雨が降る。

ひとの心を閉じ込める雨が。

ひとの想いを閉じ込めてきた雨が。




















雨が降る。

雨が降る。

たくさんの悲しみと

たくさんの諦めを閉じ込めて





























「今日も来ないのかと思ったわ」









走っていると
目の前を見慣れた白いインコが
横切った。

ピュイッ!

フォグ!


フォグは私を導くように
くるり、くるり、と旋回すると
「着いて来い」と言うように
一声、高く鳴いた。

連れて行って、フォグ。
あの店へ!
















「さまよい歩く心に
連れて行かれてしまうかもよ」







































来客を告げる鈴の音が
チリン、とひとつ鳴る。


ふわりと流れ出る珈琲の香り。
小さく流れているのは
失恋を歌った歌。


初めてここに来た時と、
いつもと、
変わらない店内は
マスターのほかには誰もいない。







扉の脇にはフォグのための鳥籠。

3つのサイフォンは
コポコポと珈琲をたてている真っ最中。




カウンターの向こうにいるのは
いつも私を出迎えてくれた人。







……来たのね、朔良



マスターはあの日と変わらない。

突然来た私に
どうして来たのか、とは問わない。

……

あの……
マスターは、


「聞いてどうなるの?」

そう問う声がする。



「私のために存在しているんですか?」
なんて
どこまで頭が沸いた台詞だろう。



そんなことは聞けない。







でも。











「雨はひとを閉じ込めるものよ」












なにかを問いかけた形で固まった
私を見、
マスターはサイフォンの火を止めた。




いつもならそのできたてを
淹れてくれるのに

今日のマスターは
手を止めたまま動かない。






そのかわり、

ちょうどいいわ
お客様がいらっしゃる予定なの

と、言って
彼女は目配せした。

へ?

この目は
例のお客様がいらっしゃる時の目。

雨の日にやってくる
少し不思議なお客様が来る時の。

あ、それじゃ着替え……

そのままでいいわ

そのまま?


それは
今日がバイトの日ではないから
ということだろうか。


でもそれなら
なにが
「ちょうどいい」のだろう。





衣装を着ないままで
給仕してはおかしいだろうに。


問う間もなく
来客を告げる鈴が鳴る。









そして



入って来たひとの姿に
私は目を疑った。































……

蘆屋!?


これも夢なのだろうか。

アメリカに行っている蘆屋が
こんなところにいるはずがない。




ということは
あのときと同じように……









すぐ傍で話しているのに
声も姿もあの男性に届かないまま
消えていった

あの女性のように




私はまた
存在していないことに
なっているの……?



























……朔良?
どうしてこんなところに

しかし。

蘆屋は私の声を聞いて
私のほうを振り返った。































「あなたの心の揺らぎが彼らを呼ぶのよ」



それじゃ、
この蘆屋は私が呼んだのだろうか。


いや、そんなはずはない。



夢かうつつか
その隙間を漂っているような
ここのお客様ならあり得るけれど

蘆屋は現実世界にいる人だ。



アメリカまで約1万kmの距離を
無いものにはできない。






唖然としたまま
突っ立っている私に
彼のほうが怪訝な目を向ける。



朔良?

え、ええと、
今ね、ここでバイトしていて


花魁のような華やかな和装で
ウェイトレスをしているというのは
伏せておいたほうがいいだろうか。


ああ、だからマスターは
今日は着替えなくていいと
言ったのだろうか。



そんなことが
頭の中でぐるぐると回る。



バイト?


私の返事を聞いて
彼は顔を険しくした。

ここは閉店していただろう?
どうやって入って来たんだ?

え?


閉店?





私は慌ててカウンターを見た。








3つのサイフォンが並んでいる。

でも、よく見ると
その硝子は曇り、薄く埃を被っている。


それだけではない。

カウンターテーブルも、
マスターが外を眺めていた窓も
扉の脇の鳥籠も

長年使われてこなかったことを
表すように
薄黒く汚れている。















無論、
鳥籠はもぬけの殻。

店内の何処にも
あの黒いドレスのマスターはいない。























これは
どういうことだろう。





「雨にしちゃいけない」



私が

雨に閉じこもっていた私の心が
変わったから?



雨になるのはやめたの


あれは……私が言うべき
言葉だったのではないだろうか。


雨に閉じこもって
誰かを待つ彼女は私自身。


いつ帰るとも知れない相手を待ち続けて
雨の中に
明けない夜の中に
沈み込んでいた彼女は、

もう行くから


と笑って

雨の中から出て行った。









目の前にあるのは
まるで夢から覚めたかのような光景。

もうずっと前に
主も来客も失った廃墟。










でも、
確かにマスターはいた。
フォグもいた。


ここには私の居場所があった。



違う……違うわ

なにが違う?


この店が存在するのかを
確かめに来たのは私。

この店の存在を
疑ったのも私。



これは
予想していたことじゃないの?
















そう思いつつも
否定したい私がいる。


ここには彼らがいた。
いたんだ、って……




























彼らの痕跡を探していると
カウンターの内側で
埃を被っている本を見つけた。

なにこれ。
……「砧」……?

マスターがいた場所。

この本はマスターがいた手がかりに
ならないだろうか。


そんな思いで手に取った本を
蘆屋も覗き込む。

謡(うたい)の本だな。
婆ちゃんがやってたから
見たことがある

謡?

能だ。
「砧」というのはその中の
話のひとつ。

都に行ったまま帰らない夫を
待ち続けて死んだ妻の話だ























それでは

あの人も

あの人も
この本の中に出てくる人――?























まるで
自分を見ているようだった。

帰らない夫を疑って、疑って、
疑ったまま死んでしまった彼女は

蘆屋を疑った私と同じ。









マスターは彼女をなぞらえて
私に同じ衣装を着せたのだろうか。



私もここに辿り着けないまま
さまよっていたら

彼女のように
なってしまったのだろうか。

やっと来たのね

マスターはそれを知っていて
私をここに招き寄せたのだろうか。




























わからない。
誰も、答えてはくれない。

















……蘆屋はどうして

私は佇んだままの蘆屋を見上げた。


そうだ。
何故ここに彼がいるのだろう。
彼は出張で
アメリカに行っているはずだ。






どれだけ会いたいと願っても
叶わなかったことが
ここで想っただけで叶うだなんて、

……

なんとなく……
歩いてたらここにいた

え?


彼は、見たばかりの夢を
思い出すような顔をした。

家に……家に行ったら
誰もいなかったから

3年って言ったのに
ずっと帰れなかったし
連絡もしなかったし

後輩が、
「もう捨てられてますよ」
なんて言ってたけど
本当にそうだったのかな、とか……

……考えてたら
いつのまにか

……



同じだ。
私がここに来たときと。












「ここはそういう街だから」















……ここは

そういう街……

朔良?

 そう。ここは
想いが吹き溜まる街。



吹き溜まった様々な想いを
番傘の彼女は、
彼女が良しとする世界へ導いて行く。


ふわふわと安定せずに
漂っている想いを。







私もその想いのひとつ。

だから番傘の彼女は
私を連れて行こうとしたのだろう。






でも、私は帰って来られた。
それは、何故?



石榴を食べてしまった彼女は
その粒の数だけ
冥界にいなければいけない

ふと思い出した。
ペルセフォネ―の話を。



私がどうして
番傘の彼女に引きずられずに
戻って来られたのか、




それはきっと――










あの時

マスターは
本当のことを言ったのかもしれない。











だから今日は
珈琲くれなかったのかな

あの珈琲は

ペルセフォネ―を冥界に繋ぎとめる
石榴と同じで、
揺らぐ想いをここに留めるためのもの
だとしたら。








私をここに繋ぎとめてくれていた
あの珈琲を
今日も飲んでいたら


私はきっと
今こうやって蘆屋に会うことも
話をすることも

そしてきっと共に帰ることも




できなかったのかもしれない。











なんの話?

ううん。
なんでもない

本当かどうかは、わからないけれど。



























私は蘆屋を見上げた。

帰ろう。
アメリカの話を聞かせてね

長いぞ


おそるおそる押した扉は
すんなりと開いた。

さあっと入り込む日差しは
この店に来て初めて目にするもの。























店を出ると青い空が広がっていた。

何日ぶりだろう
こんな晴れた空を見るのは。

いいの。
ちゃんと知っておかないと
また雨が降って来ちゃうから

雨?
それで傘持って歩いてるのか?

店先で眩しそうに空を見上げた彼が
その視線を私の手元に移す。

天気予報は晴れだったぞ

うん、そうなんだけどね
これは私のお守り


私の手には白い傘。
蘆屋がくれた白い傘。












どちらともなく差し出した手を握る。


温かい手だ。
あの番傘の少女のような
冷たい手ではない。




温かい手のひとは
心が冷たい、なんて言うけれど
今の私には
この温かさがいい。

傘が?














空はどこまでも
抜けるように青く。




その視界の端を
くるり、くるり、と
白い鳥が横切っていく。

フォグ……?
























鳥の影を追うようにして
振り返ると……



やっぱり、と思っていたけれど
あの喫茶店はなくなっていた。





まだ数歩離れただけなのに、
そこには
灰色のビルが立ち並んでいるだけ。












どうした?

……ん、なんでもないわ




私はもう
あの店には行けない。


いや
また深く傷つくことがあれば
マスターは
扉を開けてくれるかもしれない。





道に迷わないようにフォグを連れて
心が冷え切らないように
温かい珈琲を用意して


そして
いつでも帰れるように傘を置いて。










「この傘は、
あなたが歩いていくための傘」













でも今日は
朝から晴れてただろう?
いくらお守りだからって、

いいの。この傘は
私が歩いていくための傘だから



傘があれば歩いていける。
雨の中でも、ずっと。

傘をくれてありがとう



マスターが用意していたのは
きっとそのための傘。


そしてきっと
蘆屋がくれた傘も同じ。








そんな気がする。
















もしこの傘をなくしても
あの店があれば大丈夫、
だなんて、ちょっと思ったけれど



これは、蘆屋には内緒。

ね、蘆屋!








あの、さ

なに?






軽く私の手を引いた彼は
照れたように空を見上げた。










そろそろ名字呼び
やめにしない?

















































催花雨。

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