第8話

外待雨。



































マスターはあの街に
閉じ込められているのではないか?







そんな疑問が
ぽっかりと浮かんだまま数日。

この疑問は消えるどころか
私の中に根を張り
さらに枝葉を伸ばしつつある。









馬鹿馬鹿しい。


私がバイトを終えて
閉店時刻になって
片付けと明日の準備が終わったら
彼女も自分の家に帰るはずだ。


そう思うのが普通なのに































私が打ちひしがれている時に
突然現れたあの店と

私を待っていたかのように

やっと来たのね

と言ったマスター。



そのせいで
あの店と彼女は
「私のために存在している」ように
感じているだけで。







……



こんなことを思うのも
きっと
今までに出会った彼女たちのせいだ。



あの不思議な彼女たちと
その口から紡がれる不思議な話と
彼女らの後ろに見える
この世のものとは思えない風景、






そのせいで、私の頭の中が
非現実的になってしまっているだけ。





そう、思うのだけれど。









行って、みるかな



あの店に。



今日はバイトの日ではないけれど











今日もちゃんと営業していることを
確認するだけでいい。


あの店が
「私のために」存在している
わけじゃないって、

それがわかるだけでいい。























空は膜がかかったような
曇り空。

頬に当たる風と匂いからは
まだ雨が降りそうにないことを
予感させる。

今日は……
傘、いらないかな?

そう思いつつも
無意識に傘立てに手が伸びた。


伸びて、

そこに目当ての傘がないことを
思い出す。

あ、

中途半端に止まった手のやり場に
困りながら
私は蘆屋の傘しかささっていない
傘立てを見た。






私の傘はない。
私の、あの白い傘は……






捨ててしまった。




やだなぁ

傘にまで
依存してた、とか?

思わず独り言が漏れた。






そうだ。

私はいつの間にか
いろんなものに依存して
生きていたのだろう。



それが、

蘆屋だったり
バイト先の喫茶店だったり
フォグだったり
マスターだったりして








だから、それを失うことが、
今までと変わってしまうのが、


嫌なのかもしれない。












でも、それじゃ駄目なんだ。
彼らは

私の雨じゃない。





雨にしちゃ、いけない。








































































































































……あれ?



おかしい。
何処まで歩いても
あの店に辿り着かない。


飛び回るフォグに
気を取られていたとしても
こんなに歩かなかったはずだ。













こんな、


このままじゃ、

















































あの店に行きたいの?


どれくらいの間さまよっていただろう。
呼びかける声に私は足を止めた。


色あせたビル街に
たったひとつ咲いた花のように
紅い髪の彼女が立っている。

あなた、は



また何処かへ
連れて行かれるかもしれない。

私は警戒するように1歩下がった。




それを見て彼女が
ふふ、と笑う。

何処にも連れて行きはしないわ
私もさまよう側だったから

何処か遠くを見るような目は

私を見ているようで、
私を通り越したずっと先を
見ているようにも見える。

さまよう、側?

そう。
でも私はもう行くけど

行くって、何処へ?



紅い番傘の彼女が言った
「痛みも苦しみもない世界」だろうか。




私はただ
オウムのように彼女の言葉を
繰り返す。









そんな私に
彼女は首を横に振って見せた。

違うわ。
いいえ、半分くらいはそうかもしれない

あなたも
もうわかっているでしょう?
彼女が連れて行こうとする世界が
なにを意味するのか

……


烏帽子の男性を待ち続けて
亡くなった彼女と

彼女の傍らで泣き崩れていた男性。

彼らは今の世に生きている人ではない。



言い換えれば、彼らは過去。
今は何処にもいない人。











それは、





















私の想像を掻き消すように
彼女は笑う。

私が行くところは
もっと違うところ

彼女の笑みは
晴れ上がった空のようでいて


……日照雨のような
かげりを感じる。






それでも
彼女が一歩、なにかに向かって
足を進めたことは
なんとなくわかった。






で、あなたはこんなところで
なにをしているの?

私は……

「私は、あの店に行くの」


そう言うと
彼女の顔から笑みが消えた。






























せっかく雨から
抜け出すことができたのに
あなたはまた戻るの?

彼女は問う。








その物言いからは

あの店は雨の中にしかないような
そんな印象を受ける。






















































あの店を訪れる時は
いつも雨が降っていた。




鋭い篠竹のような激しい雨、
じっとりと染み込む霧雨、

太陽の日差しの下で
幻のように降る雨。






雨の種類は様々だけれど















私は、
あの店に行きたいだけよ

ちゃんとあるのか
知りたいだけ

バイトの日になれば
あのインコが迎えに来るじゃない

それじゃ駄目なの

店に行ってどうするの?

わから……ないわ

行ったから
なにかが起きるわけではない。

なにも起きないかもしれない。



バイトでもない日にやって来た私に
マスターは
「間違えたの?」と笑うかもしれない。







それならそれでいい。


でも、現実問題として
私はあの店に辿り着けなくて……














































空はぼんやりと明るい。




















その空から落ちる
一粒の雨。

……日照雨?



晴れた日に降る雨。

日照雨とは狐の嫁入りのことだと
教えてくれたことを思い出す。






空を見上げた私に倣うように
彼女も薄青い空に目をやった。

ああ……
降って来ちゃったわね

これは外待雨(ほまちあめ)。
ここにだけ、降る雨

彼女は一本の道を指し示した。

こんな道あったのだろうかと思うような
細い路地を。

この先に
あなたの行きたい場所はある

……でも

……戻れない、かもしれない?

……

お持ちなさい
これはあなたのでしょう?


彼女は私の問いには答えることなく
1本の傘を差し出した。

これは、

私の傘。




蘆屋が選んでくれた
白地に金と浅黄の花模様が描かれた

あの……傘。






どうして、あなたが……

この傘は
捨てたはずだったのに。


さあ?
どうしてかしら

彼女は含むように笑う。

きっとあなたが
同じだからだわ

あなた、と?

彼女、と

彼……女……?






彼女の言う「彼女」とは
誰のことだろう。

マスターのことなのか

名も知らぬ彼女のことなのか

それとも、
彼女自身のことなのか



























私、雨になるのはやめたの

想いを抱えたまま
そこで降り続けていても
なにもかわらない
あの人には届かない

傘っていいわよね
これがあれば雨を気にしないで
歩いていけるのよ?











「雨になれば
あの人を閉じ込めておけたのかな」

そう言った彼女が、










ああ、話すぎちゃったわ
私はもう行くわね



彼女は傘を私に押しつけると
踵を返した。




まるでこの傘を
届けに来ただけのように


傘を渡すためだけに
ここで待っていたかのように

何処へ?

あの人のいる場所へ



彼女は空を見上げた。

ビルに切り取られた小さな空に
昼の月がぼんやりと浮かんでいる。






あの月の下に
彼女が想う人がいるのだろうか。





彼女は

明けない夜から
出ることができたのだろうか。

傘、いらないの?

それはあなたの傘。
あなたが歩いていくための傘だわ

私が、歩くための……


受け取った傘を見た。
白地に金と萌黄の花模様の傘。

蘆屋が
私のために選んだ傘。


それじゃ


























































私は彼女が指し示した道を見た。


この先にあの店があると
彼女は言う。




……あの店が






























雨が降る。

たった一粒だった雨は
歩を進めるほどに増えていく。


ぽつり、ぽつり、から

ぱら、ぱら、へ




そして







































































外待雨。

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