どれくらい時間が過ぎただろう。
エヴァリーンは、ようやく目を覚ました。
辺りは、一面真っ暗闇。

ここは一体、どこ?

眠らされていたエヴァリーンには、当然見当がつくはずない。
前回はスリに捕まり、今度は監禁。それも、トールと二人で出かけた時ばかり、トラブルに巻き込まれる。

彼は疫病神(やくびょうがみ)か何かなの!

と、エヴァリーンは苛立ち気味に立ちあがった。
自分を攫(さら)った女性の顔ははっきり覚えている。トールにアプローチをしていた、あの女優たちだ。
つまり、彼がこの事件の起爆剤のようなもので。
最悪だ。人目も多い、公共の場だから、あの女性たちとの関係も、親しげな態度も、追及しなかった。それなのに、この結果だ。
いない相手への悪態を吐いても仕方ない。
エヴァリーンは、手を伸ばし、周辺を探った。
相当広い場所らしい。右へ左へ、少しずつ動いているのに、柱にも壁にも触れない。
目を細めてみても、何も見えない。分からない。
冥府の入り口のような底知れ無さを感じ、ぞっとした。
恐る恐る一歩踏み出すと、かつんという音が辺りに反響した。

誰かいませんかー!

叫んでも、自分の声が木霊(こだま)するばかりだ。
本当に、冥府にでも来てしまったみたいだ。
暗い想像ばかりしていてもしかない。エヴァリーンは当てもなく歩き始めた。
どれほど歩いても、明かりの一つも見えない。人の気配もしない。
その時だった。
甘い香りが鼻腔をくすぐって、目の前を人影が横切った。
相手は、エヴァリーンの方を振り返り、にたりと気味の悪い笑顔を浮かべた。

……

!!

エヴァリーンはぎょっとした。その人の顔は、仮面で覆われていたのだ。
仮面舞踏会(マスカレード)でもないのに、変な人。
それに、ひどく不気味だ。昔読んだ物語の、ヒロインを攫う怪人みたいだ。暗闇の中にいても、その姿だけははっきりとわかった。それがさらに気味が悪い。
どうして、こんな場所に。
エヴァリーンが一歩近づくと、彼はローブを翻して走り出した。エヴァリーンは反射的に追っていた。
ようやく誰かに会えた。薄気味悪さよりも、見失いたくないと思った。

待って!

付いてこられるかな、そう笑われた気がした。
あの不審者は誰なのか。深く考えないまま、エヴァリーンは人影を探した。
さあ、こっちへおいで。
頭に響く声が、誰のものなのかも分からない。
徐々に、思考に霞(かすみ)がかって、夢現(ゆめうつつ)を彷徨(さまよ)っているような、ふわふわした感覚に襲われる。
幾度となく声が聞こえた。それなのに、仮面の人影はいつまで経っても捕えられない。
かつんと、一際高く靴音が響いた瞬間、バランスを崩して、後ろに倒れ込んだ。

嘘……

エヴァリーンがまさに足を踏み出そうとしていた先には、ぽっかりと穴が開いていた。躓(つまず)いたのが幸いだった。
もし落ちていたら、良くても怪我、打ち所が悪ければ最悪の事態だ。
気づけば、エヴァリーンを翻弄していた包帯男の姿も見えない。
白昼夢でも見ていたかのように、消えてなくなっていた。

どういうこと……?

恐ろしさに身震いした。
冷静に考えれば、こんな場所に人がいるはずない。人一人が忽然(こつぜん)と消えるはずがない。
白昼夢でも見ていたのか。
幻にまで騙(だま)されたということ?
瞼(まぶた)の裏には、薄気味悪いあの影がこんなにもはっきりと浮かぶのに、人影が存在した痕跡が欠片も見当たらない。
急に怖くなって、エヴァリーンは急いで出口を探そうと立ちあがる。しかし、恐怖のせいかまったく力が入らず、その場にへたり込んでしまった。

助けて……

震える声で、彼の名を呟いた。
その時、頭上でこつこつという音がして、丁度エヴァリーンのいる辺りで止まった。

エヴァリーン

聞きなれた声に、耳を疑った。また幻を見せられているのではないかと。

エヴァリーン、聞こえる? いるなら、ちょっと離れてて

声の主を確認する前に、天上の一部に大きく穴が開いた。轟音がなって、舞台が騒然となる。

エヴァリーン! 良かった。

穴の開いた天上から、トールが颯爽と駆けつける。安堵と驚きのあまり言葉は出なかった。

良かった、無事で

本当に、どこにいても来てくれるのね

当然

得意げな顔で告げられ、心拍数が上昇する。
昔は、エヴァリーンが手を引いていたのに、いつのまにか、エヴァリーンが手を差し伸べられている。
幼馴染が、王子様みたいになるなんて、想像もしなかった。
不思議で、温かい。情けないやら、嬉しいやら。何とも言い難い気持ちになる。

とりあえず、ここから出よう

そうしたいのは山々だけど、どうやって……

エヴァリーンが散々探し回ったが、出口は見つからなかった。
トールが悪戯っぽく、天上を指さす。
彼が開けた穴だ。そこから、眩しいほどの光が差し込んでいる。

ここは、劇場の地下だったんだ。丁度、舞台の下あたりで、舞台袖の床を破って来た。ロープを降ろしてもらうから、あそこから出られるよ。

大胆すぎる。よりにもよって、上演中の舞台に大穴を開けるなんて。

大丈夫だよ。舞台は今、王子と魔女の戦いの場面だ。多少の演出は、大目に見てくれるさ

これが演出の範囲で済めばいいけれど。
莫大な修理費を請求されたら、どうするつもりだろう。
もっとも、国で一、二を争う富豪の彼のことだ。舞台の修繕費くらい、なんてことないのだろう。
ただ、原因を作ってしまったのが自分である以上、目を瞑(つむ)る訳にもいかない。その際は、エヴァリーンも出来る限りのことをしなければならない。
トールに頭が上らないなんて……。
助けられたはずなのに、非常に複雑な気分だ。

トールの手を借りて、地下から出ると、劇場の最上階にあるスイートルームへ案内された。部屋ではすでに侍医(じい)が待ち構えていて、エヴァリーンを診察してくれた。
医師が異常なしと帰っても、トールは心配そうで、しきりに毛布や水を運んで来たり、救急箱を持ってうろうろしていた。

ありがとう。でも、私は大丈夫だから座って

でも、何かあったら!

大丈夫。座りなさい。それと、落ち着いて

強い口調で命じると、トールは渋々従った。

はい、お水

心配しすぎて疲れてしまったのか、トールは勢いよく水を飲みほした。
コップをテーブルに置くと、トールは長く息を吐き出し、「ごめん」と呟いた。

今回の騒動は、僕のせいです

やっぱり。自覚があるならいいけど

薄々勘付いてはいたので、今更怒る気はなれない。

彼女たちは、あなたの恋人?

違うよ! 今は

すっかり昔の立ち位置に入れ替わった二人の間に、気まずい空気が流れる。
今はか。まあ、トールも妙齢の男性だから、そういう相手が一人二人いても可笑しくない。
分かっているのに、苛々する。
でも、ここで争っても仕方ない。二人とも、もう大人と言える年なんだから。
高ぶりそうな感情を飲み下して、エヴァリーンは話を続けた。

別に大事にするつもりはないけど……一つだけ気になるの

何かあった?

地下室に人がいたの。私以外に、誰か閉じ込められていたとかないわよね?

人? いや、支配人の話だと、地下は上演中、立ち入り禁止だから誰も立ち入らないって

でも、私見たの。仮面の男が、私の所にふっと現れて……

エヴァリーン、それは確か?

強く頷いた。白昼夢のような光景だったけれど、あれは夢なんかじゃないという核心があった。

他に変わったことはなかった?

他は……そういえば、甘い香りがした

菓子とも花とも違う、嗅いだことのない香りだった。男が現れる前、つんと鼻腔をくすぐった。あの時は、気に止めもしなかったけれど。

エヴァリーン、よく聞いて

急に、トールが神妙な顔つきになったので、エヴァリーンも思わず背筋を伸ばした。

最近、王都で違法薬物の事件が度々起きてる。その薬物を服用すると、酩酊感に襲われ、徐々に幻覚が見えるようになる。その薬、甘い香りがするらしい

その事件なら、エヴァリーンも知っている。最近、新聞の一面でよく見かける。
薬物を過剰に摂取し、中には錯乱した男が通行人を次々切りつけた痛ましい出来事もあった。

まさか、この劇場!?

思い浮かんだ一つの推測に、背筋が凍った。

違法薬物使用。もしかすると、関係者の間で違法薬物が出回っているかもしれない。下手をすれば、ここが薬物の出所って可能性もある

劇場ぐるみで犯罪が行われているなんて、考えたくもない。けれど、劇場だからこそとも言える。
多くの人が出入りしても怪しまれず、貴族など上昇階級の人々と安易に接触できる。
薬物を高値で売るにしても、手に入れた薬物を城下に流すにしても、うってつけの場所だ。

君は、君を敵視する人たちに薬物を使われたんだ。香のような形で地下室に薬物を蔓延させて、そこに君を閉じ込めて始末しようとしたのかもしれない。

詐欺、ひったくり、誘拐、監禁と続いて違法薬物。
詐欺令嬢は、妙な引きが強い。
ここまで来ると、いっそ感心するほどだ。
むしろ、自分が引き当てて良かった。
ある程度、修羅場を経験しているエヴァリーンだから、並みの令嬢よりは肝が据わっている。捜査にも協力できる。

どうする? 捕まえる? それだったら囮(おとり)は私が……

駄目だ。危険すぎる。君の勇敢なところは好きだけど、賛成はできない。それに、トカゲのしっぽを捕まえたところで、黒幕には辿りつけない。

その通りだが、一体どうやって?
エヴァリーンが知るのは、彼の言うトカゲのしっぽのこと。これだけでは、違法薬物のルートを完全に絶つことは不可能だ。

エヴァリーン。婚約を延長しよう。

え、延長?

突然の申し出に、素っ頓狂な声が上がる。どうしてこのタイミングで、そんな話が出て来たのか。

君はまだ結論を出してないだろう? 僕のポロポーズに。

見破られている。結構な時間を共に過ごしているのに、エヴァリーンが未だ、トールを信じ切れていない。
理解した上での、延長戦。
約束の期限まで、あと一か月しかない。
結論を先延ばしにするのは、問題ごとを後回しにすることになる。けれど、一か月で結論が出せるとは思えない。
言い方はよくないけど、この話に乗っかった方がいい。

ごめんなさい……延長戦をお願いするわ。今度は必ず答えるから。

謝らなくてもいい。三カ月は流石に短すぎた。それだけだ。

トールは、エヴァリーンの頭をぽんぽんと優しく撫でて、立ちあがった。
それだけで、重苦しい気分が、軽くなったような気がした。

じゃあ、明日からレッスンだ

レッスン?

そう。二か月後の王宮晩餐会に、向けてね。

……王宮晩餐会!?

詐欺令嬢の婚活はまだまだ終わらない。

詐欺令嬢の初舞台 part2

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