彼女との掲示板での会話が始まり、一つ年を越えてまた春が訪れようとした。
僕としては花粉症なのであまり嬉しい季節ではないのだが、少しずつ花を咲かせていく桜並木を見て、まぁこれも悪くないか、と鼻をすすった。
彼女との掲示板での会話が始まり、一つ年を越えてまた春が訪れようとした。
僕としては花粉症なのであまり嬉しい季節ではないのだが、少しずつ花を咲かせていく桜並木を見て、まぁこれも悪くないか、と鼻をすすった。
彼女との掲示板でのやりとりは未だに続けられていた。
お互いにそれほど不自由なく、毎日暇を持て余すような人間ではなかったため、会話の更新は週に二回ほどが習慣になっていた。
他愛のない話から人の内面的な話とバラエティーに富んだジャンルの会話がもう既に一年以上続いている。
不思議と、いや幸いとして僕はまだ彼女がどんな外見をしているのか知らない。
相変わらず興味がないわけではないのだが、簡単にいうとここまできて今更会うのもどうかと疑問視し始めたのが原因だと思う。
そのうちに半年経つか経たないかの頃、僕は自然に掲示板で出くわすことがないように望んだ。その願いが叶っているおかげなのだろうか僕はこうして彼女に会わずに淡々と会話を続けていた。
しかし、その日に貼られていた彼女のメモにはこう書かれていた。
……
このメモを見て、僕の時間が構内に鳴り響くチャイムが終わる頃までしばらく停止していた。
はっとして、よくよく考えてみるとそんなに悲しむような事ではないことに気がついた。
僕はそれに対し、『そうなんですか、おめでとうございます』と書き、これだけでは物足りなさを感じて、言葉を足そうとしたのだが、それ以上の気の利いた言葉が浮かばなかった。
なにかの台詞の代用でもいいだろう、と思ってもそれがペンから紙に伝わらなかった。
仕方なく、僕は何も付け足さずにその紙を今貼ってある紙と変えて、その場を後にした。
あれ?
翌日、紙はなくなっていたが、彼女からの返信はなかった。
実際、こういう事はよくあるので僕はそう気にしなかった。忙しい時ならば紙だけ取って後日返すなんてことも多少あった。
僕は掲示板から離れ、講義を受けてから再び掲示板に赴き、自宅に帰った。
卒業式まであとわずか数日という日のことだった。
卒業、か
卒業したらきっと彼女には二度と会えないのだろう。
お互いにメールアドレスも電話番号も、ましてや顔すら知らないのだから。
……
そう考えてみると、すごく不思議な関係が成り立っていることを改めて知った。そして幾分かそれを惜しむ自分がいることも知った。
『最後になるかもしれないので会ってみませんか?』
翌日、これを掲示板に貼ったのは僕だった。下心はないと思うし、ただ純粋に会ってみたいと思った。
初めてこの掲示板であのメモに出会った時が昨夜から頭を離れなくなった。
こんな自分はなんだか気持ち悪かったし、そのまま溜め込むのも嫌だったので、僕は早朝に掲示板に向かい、その紙を貼った。
……
後悔はしていない、と僕は掲示板を後にした。
それが彼女の返信だった。
そして、そのメモを手に取ると裏側に何か書いてあることに気付いた。
同じ気持ち、僕は少し息を詰まらせた。このもどかしさのことを言っているのだろうと勝手に答えを出し、僕はペンを握った。
『僕が誘ってなんですが場所や時間は任せます』
翌日の夕方、掲示板の紙が変わっていた。
僕が予想した通り、そのメモの裏側に指定場所が書いてあった。
……電車?
僕は少し首を傾げそうになったが明日になればわかると思い、『わかりました』と貼った。
帰り道の途中で会話をし始め、彼女が僕に会いたいか、ときいてきた日のことを僕は歩きながら鮮明に思い出していた。
なんだか自分も老けてきたかな、と思い、僕はもう少しで満開が見れそうな桜並木を見て歩き続けた。
翌日の朝、掲示板にはメモが貼られていた。
……あぁ
そのメモを見て、僕は改めて彼女がこの掲示板から姿を消すんだな、と実感した。
そうか……
小さなメモに書かれた多くの文字を見て僕は胸が苦しくなった。
恋や愛とは少し違う、大事なものが崩れていくような感じ、喪失感に似た重りが僕の体にのしかかった。
僕は少し深呼吸に似たため息をはき、その紙をメモ入れに入れた。
僕はその掲示板に彼女に向けた紙を残すことなく、その場を離れた。
その日はなんとなく頭がぼうっとしていた。講義も頭に入らずに時計の針を気にしていた。
…………
会ってしまったらもっと辛くなるかもしれない。
僕の体の弱い部分がそう忠告した。会わないほうがいいかもしれない。お互いの為にも。正直に言うと自分の為にも。
講義が終わり、太陽がだんだん赤みを増した。
そろそろ、時間か……
駅に行かなくては……。
頭は思っても重りだらけの体がなかなか動かなかった。
僕は重い腰を上げられないまま、昔の溜まった数十枚ものメモを手に取った。
一枚一枚にそれぞれの思い出があった。少しパラパラと見ていると、少し前の一枚のメモが目に止まる。
『きっとあなたも同じ気持ちだと思います』
……!
僕はなにかがフワッと浮かび上がるように立ち上がった。
こんなところでなにをやっていたんだろうか。早く行かなければ電車が行ってしまう。僕は急いで大学から飛び出した。
自分のこの気持ちを守るために彼女に会おうとしなかった、そう考えたら辻褄が合った。
いや、そんな関係だからこそ、あの会話が長続きしたのだろうな、と走りながら思っていた。
切符を買い、改札に入る。時間は四時二十五分、新宿行きの電車がちょうどホームに着いていた。
間に合った……
僕は急いで階段を下りて、その電車の前から五両目を探し、それに乗り込んだ。
中にはこの時間帯から都心に出る人も少ないようで、数人が座っているだけだった。その車両の先頭の窓側に目をやるが、そこには彼女らしき人はどこにも見当たらなかった。
……いないのか
走ったせいで少し息を切らした僕はとりあえず、その車両の先頭の窓側に立ち、彼女が来るのを待った。
あと一分。
……
彼女も、僕と同じ気持ちで、会うことを拒んでしまったのだろうか。僕は俯きながらそう思った。
『同じ気持ち』だとしたら有り得ない話ではない、このまま会わずに別れを告げたほうが、幾分まだ楽な気もする。
出発のベルが鳴る。
向かいの電車がホームに進入し、ゆっくりと速度を落としていった。
乗っている電車のドアの閉まる。
僕はその音に合わせて、体から空気を抜いた。
やっぱり……
僕はゆっくり顔をあげると、向かいの電車でこちらを見ている女性がいた。
黒髪を揺らし、僕を少し確かめるように眺めたあとにゆっくりと微笑んで小さく口を開いた。『こんにちわ』と。
音にしては聞こえなかったが僕にはなんとなくそれが伝わってきた。
そして、僕が何かを言おうとする前に、電車は日常的に発車し、僕の目の前にいた彼女の微笑みはしばらくして綺麗な桜並木道の風景へと流れていった。
……
……ふっ
僕はこのときの気持ちを大事にしっかりと心の奥にしまった。
もう会えるかもわからない大切な人の笑顔の記憶と一緒に。
おわり