あれは一月二十三日。午前六時二十分だった。
あれは一月二十三日。午前六時二十分だった。
ぐーすかと寝ている俺に親がやかましく、布団を揺らして起こしてきた。意味が分からず、少しイライラしながら俺は上半身を起こし、親に何? と聞いた。
お婆ちゃんが……死んじゃったの
死んだの……?
この時、実感何んて到底湧かなかった。親が何度も言ってることをただ茫然と聞いてるだけだった。親がこんだけ涙声で言ってるにも関わらず、なぜだか何も感じない。
母は片手の携帯をまた耳に当て、俺の部屋から消えていく。時計を見てみると、針は六時二十分。いつも起きる数分早い。
この日は金曜で、学校がある。しかも授業の内容は実習で、朝八時までに俺たちのクラスだけ学校に集合して、その下準備をしなくてはいけない。
お婆ちゃんのことがあったが、取りあえず学校の支度をし始める。
一通り終わった後、俺は親に今日は学校を休んだ方が良いかと聞いた。
行ってきなさい。今日の実習に出られなかったら、単位がもらえないでしょ?
そう、単位がもらえない。実習は四時間あり、しかもそれは必須科目だ。もし仮に今日一日を休んでしまうと、その科目だけ単位が足りなくなり、進級又は卒業ができない。
俺の場合は後者の方で、もしこの授業を受けなければ卒業できずに、留年することになる。しかも、内定もその時決まっていたので同時に内定も取り消されてしまうのだ。
分かった、行ってくる
俺はそう言って、自転車をこいだ。内心、心の中がごちゃごちゃとして訳が分からなかった。
無事に学校へは着いたが、俺の気分は晴れやかではなかった。
その日の実習でも心の中はもやもやして授業に集中できなかった。そのせいでクラスメイトには罵声や怒声を浴びせられ続け、自己嫌悪に陥る。
そして決定打となったのがこの授業の担当兼担任の教師からの言葉からだった。
担任に連れられ、俺を含むクラスメイト十数人で学校が取り扱ってる薬品の廃棄場所に向かった時のことだった。
危険な薬品がいっぱいに満たされた水槽が色々な所に置いてあり、その説明に入っていた。この薬品の危なさを伝えるために、偶然近くにいた俺に例を挙げて先生はこう言うのだ。
もし上町君がこの中に入ったら骨になります
皆、何が面白いのかゲラゲラ笑っていた。
そして、お婆ちゃんが死んだと聞かされた後に言われると、この言葉がずっしりとなぜかのしかかる。悲しくはないが、衝撃だった。
そして、その後は何事もなく授業が終わりを迎える。だけど、すぐには帰してもらえない。
授業が終わったあとは実習のレポート作成を命じられていた。せっせとレポートを作成し、提出するも、ここが書いていない、これが抜けていると突き返され、書き直させられる。
俺は我慢の限界で先生に直接、話を着けに行った。すると、先生はコーヒーを飲みながらこちらに嫌な視線を向け、耳を疑うような言葉が返してきた。
君はクラスの皆に迷惑を掛けるのか?
それは……
俺は何も言い返せなかった。このレポートは一人でも提出できなかったものがいた場合、その生徒が終わるまで卒業できないと宣告されていたのだ。
別に良いよ。君がちゃんと終われると言うのなら
この一言で俺は諦めてしまった。皆の迷惑になりたくないことを選び、俺はひたすらレポートの作成に勤しんだ。
ただいま……
俺がそう言って帰宅したのは夜九時だった。玄関の中に入ると、線香の香りが漂ってきた。その匂いの出所は玄関を上がってすぐ右の和室からだった。靴を脱いで、一階の和室へと足を踏み入れる。
目に入ったのは喪服を着た中年の女の人が正座して両手を合わしていた。俺と目が合うなり、軽く会釈して立ち上がる。そして、何も言わずそのまま部屋から出て行く。その後を追うかのように、どこから現れたのか、母が現れた。
あんたもお婆ちゃんに挨拶してきて
う、うん……
親はそう言うと、部屋から出て行ってしまった。
あとに残された俺はさっきの女の人が手を合わせていた方向へと視線を向ける。そこにいたのは白の敷布団に横になり、毛布を掛けられていたお婆ちゃんがそこにいた。
その横には茶碗に盛られたご飯に、線香が二、三本突き刺してあった。
目を閉じ、まるで寝ているようだ。顔色は全身の血が通わなくなった証拠なのか、とても肌が白い。息遣いも全然聞こえてこない。まったく動かない。全然話さない。全然笑ってくれない。
お婆ちゃん……
この時初めて、俺はお婆ちゃんが死んだことを本当の意味で理解できた。
…………ッ
叫びたいくらい泣きたかった。精一杯泣きたかった。けど、それだけはしたくないと、謎のプライドが邪魔をした。
涙は出るが、そこまでで止めたい。涙が次から次へと流れていくが、引いた境界線は超えさせたくはなかった。
すると、母が俺の横に座り、こう言った。
もう少し早く、合わせてやるべきだったわね
お婆ちゃんは亡くなる前、『肺ガン』を患っていた。その時の年齢は七十二歳。手術をしても体が持つ可能性が低く、脳への転移も見つかったため、手術がされることはなかった。
それからお婆ちゃんは入院生活を送ることになり、たまのお見舞いでしか会えなくなった。いつも俺が来る度に喜んで迎えてくれて、免許はとれたかどうかや会社はどうなったかとかを楽しそうに聞いてくれる。
だけど、その時の俺はお婆ちゃんに会いに行くのがめんどくさくて仕方なかった。面会に行く時はいつも親が一緒なんだが、俺は隣でスマホを弄っていた。
そして、段々行く回数も日を追うごとに少なくなり、最後に来たのはお婆ちゃんが亡くなる一カ月前だ。この時には、もうお婆ちゃんのことなんてどうでも良くなっていた。
だけど今こうして、お婆ちゃんの死を目にしていると酷いことを考えていた前の自分を怨んだ。こんなことなら、もっとお見舞いに行っておけば良かった。話しておけば良かった。
綺麗な顔してるでしょ? 亡くなる前はやつれてたけど、病気で頬が腫れてちょっとふっくらしたのよ
見舞いにあまり行かなかった俺には分からない情報だった。けど、確かにふっくらしてるせいか元気だった頃とそう変わらなく見える。
お婆ちゃん、何よりあんたのことを一番大切にしてたからねぇ……
親が暗い表情で言う。
お母さん、ちょっとやることあるから取りあえず着替えてらっしゃい
……うん
俺は言われたとおりに部屋に行き、私服に着替えた。途中、リビングで弟が何食わぬ顔でテレビを見ている姿が目に入って無性に腹が立ったが、自分を抑える。
着替えた後、俺はすぐにお婆ちゃんが寝かされている部屋に行った。部屋には誰もいない。俺とお婆ちゃんの二人だけだ。
俺は近くの椅子に腰かける。視線をお婆ちゃんに向けようとした時、仏壇に置いてある物に目を奪われた。そこにあったのは写真。
お婆ちゃんが死ぬ数日前に撮られた写真だった。鼻には管が通され、寝たきりの状態でもこっちにむかって頑張って微笑む姿だった。
一度引っ込んだ涙が溢れてきた。視界がぼやけ、何度も拭っても拭っても、収まることはない。そして気が付けば、俺は声を上げて泣いていた。
うぁあああぁああああ!!
泣いて泣いて泣いて……泣き続けた。もうお婆ちゃんとも一緒に飯を食べることもできないし、出掛けることもできない。色々な物を買ってもらって、それを返すこともできない。数々の思い出が涙と共に零れていく。
俺が泣いていた時、後ろからガラガラと引き戸が開く音が聞こえてきた。振り向くと、そこには叔父が立っていた。
いたのか……
叔父はそう一言いうと、引き戸を閉めて、俺の隣に置いてある席へと腰を下ろした。俺はその時、叔父に涙を見られたくなくて、服の袖で涙をごしごしと拭った。
…………
…………
お互い無言のままだった。お婆ちゃんと叔父は俺と同じ家に住んでいるのだが、叔父はあまり喋る方ではなく、ここに生まれて十数年、まともに会話をしたのは数回ぐらいだ。
挨拶は……済ませたか?
はい
そうか……
気まずい空気が流れる中、最初に口を開いたのは叔父だった。
俺も……お婆ちゃんのお見舞いに行ったんだ
…………
落ち着いた声色で、叔父は淡々と語っていく。今までそんな姿を見たことがなかったので少しばかり俺は動揺していた。
お前のこと、心配してたぞ。免許は取れたかどうかや会社のことで
…………
……辛かった。これだけ心配されていたのに、俺はお婆ちゃんをどうでも良いと思っていた。そんな自分がとにかく嫌になる。
それに、お前の声が聞こえるって言ってたなぁ……
…………ッ!?
この時、俺はもう限界だった。お婆ちゃんがやつれた姿になって、声もまともに出すのが難しい状態でも俺のことを話していた。その姿を想像してしまい、涙を堪えきれなかった。
うっ……うぅ……
叔父さんは何も言わず、話を続けた。
知ってるかもしれないが……
一旦ここで叔父さんは区切った。言うべきなのかどうかまだ迷ってるのか、少し濁したが再び口を動かす。
その人はお前の本当のお婆ちゃんじゃない