『空から少女は降ってこなかった』

僕は今日も一人で夕飯をつまむ。テレビでは作られた物語が淡々と綴られた。頭に靄がかかったように思考がはっきりとしない。きっと授業で扱ったジエチルエーテルのせいだ。

夕飯を終えたら、明日が期限のレポートを仕上げる。お湯を沸かして珈琲を淹れる。なるたけ激しい音楽をヘッドホンから頭に流し込む。

ノートと教科書を手元にレポートを完成させる。求められているだろう考察を書き込む。メールに添付して提出。深夜二時過ぎ。少しでも寝ないと。

珈琲を飲み干して歯を磨く。ふと見渡すといつのまにか部屋が汚れていた。最後に掃除したのはいつだろう。

年末に試験が集まっていて、休日がまともに取れない。放課後も課題を片すのに忙しくて、バイトも出来ないし遊びにもいけない。

慣れてしまえば苦ではないのだけど、ふとした拍子に、今みたいに色々なものに閉じ込められているような気になる。それ以上考えないようにして電気を消す。


一限が行われる教室で授業の開始を待つ。隣にサークルの友人が座ってきた。名前は思い出せない。

週末の試合は?

ごめん、行けない

僕はひたすらに謝った。本音を言えば彼の試合を見に行くためだけに休日は潰せない。休日を潰せば、平日の睡眠がなくなる。

一年の時の気まぐれで入った、レギュラーになれるはずもないテニスサークル。抜けるのもめんどうで毎年無駄な会費を払っている。

彼は肩をすくめて来週末の忘年会の話をし始めた。遮るように訪ねてみる。

そういえば彼女は?

沢田?別れたよ

事も無げに言って、彼は出会いがないんだよね出会いがと笑った。

サークルの子はやっぱダメなの

当たり前じゃん、一女ならともかく。もう数年一緒にいて付き合わないってことは恋愛対象外ってことでしょ。そもそもこじれたらめんどくさいし

彼に悪気はないのだろうけど、

そういうお前は?

問い返されて僕は困った。

僕?

彼は期待していないような顔だったけど実際、僕はそういう話を期待されるような容姿でもない。言ってしまえば、タイプが違う。僕はそういう人種じゃない。

気になってる女の子とかいないの?

いないね

何で?

やけに突っかかってくる。早く授業が始まって欲しい。教員は遅れているらしい。

紹介しようか?好みとか?

苦笑いで誤魔化そうとした僕の視界の隅に、『彼女』が写った。

ん?

僕の視線の先を追って彼が振り向く。彼女は気付いた様子もなく、文庫本の栞紐をいじっている。

もしかしてあれが良いのか?

彼の指摘は正しかった。僕は少し前から彼女が気になっていた。たぶん同じ学年の、別の学部の子。この授業だけ被ってるらしくて、他の授業で見たことはない。

初めて見た時から彼女は柳美里を読んでいる。女性的で自分の感性に深く踏み込まれるような文章を描く作家だ。毎週彼女は違う文庫を読んでいて、今日はゴールドラッシュだった。

あれはやめとけよ

え?

彼は半笑いのまま肩をすくめる。教授が教室に入ってきた。

川口って言うらしいんだけど、ダンスサーで男と拗れたって

あぁ、そう

授業が始まってしまったのでそれ以上のことは尋ねられなかった。

でも彼はどうしてそんな彼女の過去が、僕が彼女への興味を失う理由になると思ったんだろう。彼女がどんな人でも関係ない。誰と寝ようと関係ない。ただ気になるだけなんだ。

それだけなんだ、と言い聞かせるようにして。

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